2007年06月30日
仲間とつるむな-自立のすすめ-(929)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -20-
私は自己管理ができない選手が多いことを嘆いているのではない。
試合直前なのに心身の状態を最高にもっていこうとする努力が見られないことを嘆くのだ。
試合前のウォーミングアップでさえ、「自分ひとりでやることが恥ずかしい。」という選手がいることに驚かされる。特に男子選手にはこの傾向が顕著であるように思われる。
戦う以前の問題だ。なぜ戦うために準備することを恥ずかしいと思うのか。ここに、大きな問題が潜んでいる。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「日本社会は同調の規範度が高いと考えられる。」と言い、「人間は自分が精一杯努力をしているつもりでも、グループのときは、やはりどこかで手を抜いてしまっているようである。」と述べている。
つまり、多くの(弱い日本人)選手は、仲間とつるむことで、ほかの人がやっていることと同じことをやっているという安心感を得ると同時に、きちんとウォーミングアップをやっていない自分を正当化しようとする「ずるがしこい考え方」に支配されてしまうのだ。
このような傾向は、「自信のなさの表れ」であるとの指摘もある(榎本博明「<本当の自分>のつくり方」講談社現代新書)。
諸富祥彦(「孤独であるためのレッスン」NHKブックス)は「現代の若者の多くは「ひとり」でいる状態をひどく恐れ、避けようとする傾向が見られる。長じてもなお妙に子供っぽく、あたかも成熟を拒否しているように感じられるのは、青年期の心の成長に不可欠な「自己との対話」がなされていないためであり、原因の一端は「ひとりじゃいられない症候群」を助長する携帯電話、電子メール、インターネットなどの社会環境にもある。」と述べている。
「ひとりじゃいられない症候群」とは良い命名だと思う。
しかし、人生どう生きるか、しょせん己ひとりの道であるし、スポーツは孤独な戦いに決まっている。なのに、それを恐れていて戦えるものなのか?
ただ友達と仲良くテニスがしたいという選択があることを否定はしない。ならば、「強くなりたい!」とは口が避けても言ってはならないのだ。
強くなりたいのならば、まず仲間から離れよ。
橋本治(「橋本治の男になるのだ」ごま書房)は、「「戦いに勝つ」は、「なれあいの群れから離れて、自分の信念に従って生きる-そのことを押し通せる」です。このことこそが「自立」で、「自立」とは「戦い」が成り立たなくなった現代に唯一残された「戦い」なんです。」という。
実に男らしい言葉ではないか。「自立」できなくて、何が男だ(なんだか若かりし時に見た「俺は男だ!」の森田健作(今は参議院議員だっけ)のような気分になってきた)。
また、「男にとって「自立よりも重要なこと」というのはなにか?それは「一人前になること」です。」と言っている。
この一人前とは、「「自分のすべきことはなんでもする」です。「自分のするべきことは何でもすると覚悟して、なんでもする」です。そしてこのことは、もちろん、「できないこと、わからないこと、知らないことを、できない、わからない、知らないと素直に認める」と同じです。」と述べている。
このような「覚悟」を貫くことははなはだ困難であろう。しかし、「孤高に耐え」、「個」の強さを身につけない限り強くはなれない。これは法則である。
イチローが2年目のシーズンを終えたときのインタビュー記事が中日新聞(ローカルな新聞でごめんなさい)に載っていた。
その中で、「やれることはすべてやったし、手を抜いたことは一度もない。常にやれることをやろうとした自分がいたこと、それに対して準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」と述べている。
「準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」とさらりと言ってのけるところに惹きつけられる。イチローは「一人前」だなあと思う。
強くなるための条件、それは高い資質を求めるのではない。戦うための準備をやり続けることにこそ真意があるのだ。
このことを忘れて「強くなりたい!」は単なる欺瞞である。おいおい、そこでつるんでジョギングしている君!それで強くなれると本気で思っているの?
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私は自己管理ができない選手が多いことを嘆いているのではない。
試合直前なのに心身の状態を最高にもっていこうとする努力が見られないことを嘆くのだ。
試合前のウォーミングアップでさえ、「自分ひとりでやることが恥ずかしい。」という選手がいることに驚かされる。特に男子選手にはこの傾向が顕著であるように思われる。
戦う以前の問題だ。なぜ戦うために準備することを恥ずかしいと思うのか。ここに、大きな問題が潜んでいる。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「日本社会は同調の規範度が高いと考えられる。」と言い、「人間は自分が精一杯努力をしているつもりでも、グループのときは、やはりどこかで手を抜いてしまっているようである。」と述べている。
つまり、多くの(弱い日本人)選手は、仲間とつるむことで、ほかの人がやっていることと同じことをやっているという安心感を得ると同時に、きちんとウォーミングアップをやっていない自分を正当化しようとする「ずるがしこい考え方」に支配されてしまうのだ。
このような傾向は、「自信のなさの表れ」であるとの指摘もある(榎本博明「<本当の自分>のつくり方」講談社現代新書)。
諸富祥彦(「孤独であるためのレッスン」NHKブックス)は「現代の若者の多くは「ひとり」でいる状態をひどく恐れ、避けようとする傾向が見られる。長じてもなお妙に子供っぽく、あたかも成熟を拒否しているように感じられるのは、青年期の心の成長に不可欠な「自己との対話」がなされていないためであり、原因の一端は「ひとりじゃいられない症候群」を助長する携帯電話、電子メール、インターネットなどの社会環境にもある。」と述べている。
「ひとりじゃいられない症候群」とは良い命名だと思う。
しかし、人生どう生きるか、しょせん己ひとりの道であるし、スポーツは孤独な戦いに決まっている。なのに、それを恐れていて戦えるものなのか?
ただ友達と仲良くテニスがしたいという選択があることを否定はしない。ならば、「強くなりたい!」とは口が避けても言ってはならないのだ。
強くなりたいのならば、まず仲間から離れよ。
橋本治(「橋本治の男になるのだ」ごま書房)は、「「戦いに勝つ」は、「なれあいの群れから離れて、自分の信念に従って生きる-そのことを押し通せる」です。このことこそが「自立」で、「自立」とは「戦い」が成り立たなくなった現代に唯一残された「戦い」なんです。」という。
実に男らしい言葉ではないか。「自立」できなくて、何が男だ(なんだか若かりし時に見た「俺は男だ!」の森田健作(今は参議院議員だっけ)のような気分になってきた)。
また、「男にとって「自立よりも重要なこと」というのはなにか?それは「一人前になること」です。」と言っている。
この一人前とは、「「自分のすべきことはなんでもする」です。「自分のするべきことは何でもすると覚悟して、なんでもする」です。そしてこのことは、もちろん、「できないこと、わからないこと、知らないことを、できない、わからない、知らないと素直に認める」と同じです。」と述べている。
このような「覚悟」を貫くことははなはだ困難であろう。しかし、「孤高に耐え」、「個」の強さを身につけない限り強くはなれない。これは法則である。
イチローが2年目のシーズンを終えたときのインタビュー記事が中日新聞(ローカルな新聞でごめんなさい)に載っていた。
その中で、「やれることはすべてやったし、手を抜いたことは一度もない。常にやれることをやろうとした自分がいたこと、それに対して準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」と述べている。
「準備ができた自分がいたことを、誇りに思っている。」とさらりと言ってのけるところに惹きつけられる。イチローは「一人前」だなあと思う。
強くなるための条件、それは高い資質を求めるのではない。戦うための準備をやり続けることにこそ真意があるのだ。
このことを忘れて「強くなりたい!」は単なる欺瞞である。おいおい、そこでつるんでジョギングしている君!それで強くなれると本気で思っているの?
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2007年06月29日
あたりまえの自己管理(928)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -19-
大切なのは、勝負に対して十分な準備をすることだ。
ブラッド・ギルバート(「読めばテニスが強くなる-ウイニング・アグリー-」日本文化出版)は、「本当に勝ちたいと心底思うプレーヤーは試合中何が起ころうとそれに対応するための準備を整えてコートに入る。その心遣いといったらたいへんなものだ。ジョークではない。君もライバルに負けるのが嫌なら、用意周到な彼らの心配りを見習うべきだ。」と言っている。
また、「わたしの妻は徹底したわたしの準備を“やりすぎ”だと思っているらしい。何しろ練習のときも試合と同じ準備をしてゆき、忘れ物がないかどうか細心の注意を払ってチェックするのだから素人が見れば異常なくらい神経質に映るだろう。」とも述べている。
ここまで徹底的に準備をすることが今のあなたに必要かどうかは知らないが、強くなりたいと思えば、ある程度の自己管理ができてあたりまえだ。
そのことを今ここで強調するつもりはない。あたりまえのようにやってほしい。
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大切なのは、勝負に対して十分な準備をすることだ。
ブラッド・ギルバート(「読めばテニスが強くなる-ウイニング・アグリー-」日本文化出版)は、「本当に勝ちたいと心底思うプレーヤーは試合中何が起ころうとそれに対応するための準備を整えてコートに入る。その心遣いといったらたいへんなものだ。ジョークではない。君もライバルに負けるのが嫌なら、用意周到な彼らの心配りを見習うべきだ。」と言っている。
また、「わたしの妻は徹底したわたしの準備を“やりすぎ”だと思っているらしい。何しろ練習のときも試合と同じ準備をしてゆき、忘れ物がないかどうか細心の注意を払ってチェックするのだから素人が見れば異常なくらい神経質に映るだろう。」とも述べている。
ここまで徹底的に準備をすることが今のあなたに必要かどうかは知らないが、強くなりたいと思えば、ある程度の自己管理ができてあたりまえだ。
そのことを今ここで強調するつもりはない。あたりまえのようにやってほしい。
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2007年06月28日
変化を恐れるな(927)
「変化ほど安定したものはない」と書きましたが、これはテニスの技術にも当てはまります。
上達するということは「何かが変わる」ということですが、そのことを「恐れる」人がいます。
例えばラケットやストリングを変えることを恐れます。
もちろん、技術的にフォームを変えたりすることに対してはかたくなに拒むこともあります。
はたしてこういう感性(考え方)の人は上達するでしょうか?
もちろん、たくさん練習すれば上達しますが、いろいろとトライして考える方が早道だと思います。
「そんなことは分かっている」と言う人は多いものですが、変わることを恐れる人は、実際に練習で何か違うことにトライさせると、始めのうちはがんばってトライしていますが、すぐに元に戻ります。あっという間です。
指導者から見て、今の時点で強制したり覚えなくてはならない感覚やフォームというのはあります。
それを効率的に指導するために、今までのやり方を極端に変える場合もあります。
そのことを当たり前のようにトライして、自分なりの考えをきちんと主張し、気がついたら修正できて、すっかり自分のものにしてしまう、そんな選手が強くなっていくと思います。
変化は確かに一時的な後退を生むことがあります。でも、その「変化が新しい何かを生み出す」のです。
こうした後退を「積極的後退」と呼びます。
一旦、引いたように見せて陣形を立て直し、再度攻勢をかけたときには敵を完膚なきまでに粉砕することができる優れた作戦に例えられます。
そうした変化が「絶対に自分を強くする!」、そう確信している選手は強い!そのことを忘れないでほしいと思います。
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2007年06月28日
覚悟を持って戦う(926)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -18-
テニスはうまい、でも何かが足りない。感じることは、「風格」が足りないということだ(もちろん、すべての選手がそうだというのではない)。
「風格」を国語辞典で引いてみると、「存在者・行為者としてのスケールの大きさと、重み」とある。
そう、まさに「これ」が足りないと感じるのだ。
スケールの「大きさ」はなんとなく理解できる(ダイナミックにスイングできるとか、ミスを恐れずにチャレンジするプレースタイルといったようなものか)。
では、スケールの「重さ」とはいったい何なのか。
「重さ」とは「質」のことであり、この「重さ=質」こそが強い選手になるためにもっとも大切であることを強調しておきたい。
例えば、ここに同じような大きさの球体があるとしよう。ひとつは鉄でできている。もうひとつは銀でできているとでも仮定しておこう。
鉄の表面もよく磨かれており、一見すると違いが判らない。
しかし、比べるまでもなく、洞察力の鋭い人ならば、ひと目でその違いに気がつく。光沢の違いもあるだろうが、その質感に違いを感じるのだ。
質的な違いは、隠していても「じわっと湧き出て」感知されるものだ。
いくらスケールの大きなプレーができたとしても、その「質=重さ」が伴っていなければ、優れた強い選手にはなりえない。これはよく覚えておいてほしい。
では、どうすれば「質」を向上させることができるのか。
大切なことは、「覚悟を持って戦う」ことだ。
船越正康(「スポーツ心理学の世界」福村出版)は、「試合とは、全人格の勝負である。」と述べている。
すべてを賭けて戦う気持ちがなければ勝負するに至らないのだ。
テレビで「はじめの一歩」(少年マガジン連載のボクシング漫画。これを知らない人はスポーツをする資格はないと言い切ってしまおう)の映画を見た。
その中で、身体的に極限に追い込まれた状態でも(チャンピオンでありながら)挑戦者として戦い続ける姿が見事に描写されている。
これは漫画だからありえる話ではない。私は実際にそういう選手を何人か見てきた。
自分自身を極限に追い込んで(極限まで追い込むので、身体はぼろぼろである場合も多い)試合に臨むことができる人間がいることを知ってほしい。
ただ、勘違いしないでいただきたいのは、がむしゃらなガンバリズムで勝負を挑むのではない。
山下富美子(「集中力」講談社現代新書)は、「集中力を発揮できるように万全の環境条件を整え、競争相手を想定し、何が何でもやり抜いてみせるというような悲壮な「ガンバリズム」よりも、これから取りかかる課題や作業そのものに対して、興味や関心、魅力を感じて、虚心に集中できるような「無心型」の方がかえって集中できるのである。」と言う。
そして、勝ち負けとか、自分が得られる名誉とか信頼に依存しないで、「ただ戦うことのみにすべてを賭ける意志」を持って戦うことだ。
もちろん簡単なことではない。自分の意志をそこまで自律的にコントロールできるのであれば、まちがいなくあなたは強くなる。
長田一臣(「日本人のメンタルトレーニング」スキージャーナル)は、「本当に強いとは「心の強さ」をいう。だから結論はここにくる。すなわち、ものの見方、考え方である。人生どう生きるか、しょせん己ひとりの道である。それを決めるのは心である。己の人生観、世界観を確立して自分の道を歩むのである。」と言っている。
人生を賭けた取り組みをしている者は、必然的に質が磨かれる。周りで見ている多くの人に、その質の高さは感じられるはずだ。
ある人が、「人間的な魅力を感じない選手が素晴らしいショットを放っても感動などしない。」言っていたのを思い出す。
打つショットで見ている人に感動与える選手、そんな選手が本当に強い選手だ!
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テニスはうまい、でも何かが足りない。感じることは、「風格」が足りないということだ(もちろん、すべての選手がそうだというのではない)。
「風格」を国語辞典で引いてみると、「存在者・行為者としてのスケールの大きさと、重み」とある。
そう、まさに「これ」が足りないと感じるのだ。
スケールの「大きさ」はなんとなく理解できる(ダイナミックにスイングできるとか、ミスを恐れずにチャレンジするプレースタイルといったようなものか)。
では、スケールの「重さ」とはいったい何なのか。
「重さ」とは「質」のことであり、この「重さ=質」こそが強い選手になるためにもっとも大切であることを強調しておきたい。
例えば、ここに同じような大きさの球体があるとしよう。ひとつは鉄でできている。もうひとつは銀でできているとでも仮定しておこう。
鉄の表面もよく磨かれており、一見すると違いが判らない。
しかし、比べるまでもなく、洞察力の鋭い人ならば、ひと目でその違いに気がつく。光沢の違いもあるだろうが、その質感に違いを感じるのだ。
質的な違いは、隠していても「じわっと湧き出て」感知されるものだ。
いくらスケールの大きなプレーができたとしても、その「質=重さ」が伴っていなければ、優れた強い選手にはなりえない。これはよく覚えておいてほしい。
では、どうすれば「質」を向上させることができるのか。
大切なことは、「覚悟を持って戦う」ことだ。
船越正康(「スポーツ心理学の世界」福村出版)は、「試合とは、全人格の勝負である。」と述べている。
すべてを賭けて戦う気持ちがなければ勝負するに至らないのだ。
テレビで「はじめの一歩」(少年マガジン連載のボクシング漫画。これを知らない人はスポーツをする資格はないと言い切ってしまおう)の映画を見た。
その中で、身体的に極限に追い込まれた状態でも(チャンピオンでありながら)挑戦者として戦い続ける姿が見事に描写されている。
これは漫画だからありえる話ではない。私は実際にそういう選手を何人か見てきた。
自分自身を極限に追い込んで(極限まで追い込むので、身体はぼろぼろである場合も多い)試合に臨むことができる人間がいることを知ってほしい。
ただ、勘違いしないでいただきたいのは、がむしゃらなガンバリズムで勝負を挑むのではない。
山下富美子(「集中力」講談社現代新書)は、「集中力を発揮できるように万全の環境条件を整え、競争相手を想定し、何が何でもやり抜いてみせるというような悲壮な「ガンバリズム」よりも、これから取りかかる課題や作業そのものに対して、興味や関心、魅力を感じて、虚心に集中できるような「無心型」の方がかえって集中できるのである。」と言う。
そして、勝ち負けとか、自分が得られる名誉とか信頼に依存しないで、「ただ戦うことのみにすべてを賭ける意志」を持って戦うことだ。
もちろん簡単なことではない。自分の意志をそこまで自律的にコントロールできるのであれば、まちがいなくあなたは強くなる。
長田一臣(「日本人のメンタルトレーニング」スキージャーナル)は、「本当に強いとは「心の強さ」をいう。だから結論はここにくる。すなわち、ものの見方、考え方である。人生どう生きるか、しょせん己ひとりの道である。それを決めるのは心である。己の人生観、世界観を確立して自分の道を歩むのである。」と言っている。
人生を賭けた取り組みをしている者は、必然的に質が磨かれる。周りで見ている多くの人に、その質の高さは感じられるはずだ。
ある人が、「人間的な魅力を感じない選手が素晴らしいショットを放っても感動などしない。」言っていたのを思い出す。
打つショットで見ている人に感動与える選手、そんな選手が本当に強い選手だ!
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2007年06月27日
メンテナンス(925)
昨日は久しぶりにお休みをもらって、たまっていた仕事を整理しました。
書類の整理や作成などもそれなりに大変でしたが、何よりもホームページのメンテナンスができたのが良かったと思います。
まあ、細かなところのメンテナンスなのでぱっと見て「何かが変わっている」とはっきり分かることはありませんが、管理する側から見るとシステムが安定したり、管理の手順などが統一されたりと、いろいろと使い勝手が良くなってとても安心感が高まります。
実はこういう一見なんでもないような所に気を配ることは、システムを安定稼動させるためには大変重要なことです。
テニスクラブの運営でも同じだと思います。はじめにシステムを作る時は、あれやこれやといろいろと考えてシュミレーションをして、ある程度納得いくものを作って満足しますが、すぐに細かな修正を余儀なくされます。
これは大変面倒です。せっかく苦労して作ったものを変えることは本当に面倒くさいものです。面倒くさいので、あまり効果もないだろうと放ってしまうと、これが後々大きな痛手になることがあります。
私は「変化ほど安定したものはない」という言葉が好きです。
それはより良いものを作るために、常に変化を求める気持ちを失っていない証だからです。
一度作ったものに満足して、それを恒久的に活用できるものなどほとんどありません。
もし、10年前に作ったカリキュラムやシステムをただの一度も修正していないのであれば、きっとそのシステムは上手く稼動していない可能性は高いと思います。
私のクラブは、毎年のようにシステムが変わります。子どもたちの顔ぶれが変わり、技術レベルが向上すれば、当然それに応じたシステムに作り変えなくてはなりません。
子ども達を指導している現場であれば、その変化は早く大きいものなので、常に次のステップや修正点を考えなくてはなりません。
ここでも細かなメンテナンスが強固なシステムを作ると信じています。
正直、面倒くさい、でもその繰り返しがより良い環境を作るという確信があれば行動できると思います。
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2007年06月26日
選考会(924)
今年の「ヤングスターカップ」14歳以下の大会は8月に開催することにしました。
例年は「ナイトマッチ」として、土日の夕方からの時間を利用して大会を開催していましたが、今年はその方式を変えることにしました。
これにはいくつか理由がありますが、一番大きな理由は「選考会を開催したい」ということです。
選考するのはもちろん海外遠征に派遣する選手です。
今まではひとつの大会の上位入賞者から派遣選手を選考してきましたが、今年は違う方式にチャレンジしようということになりました。
きっかけは私の指導する選手が「ワールドジュニア」のメンバーに選ばれたことでした。
このワールドジュニアの選手選考も、従来は対象大会の上位入賞者から選考されていたようですが、最近は何回かの「選考会」を開いて、選手の力をより確実に把握し、チームとしてもっとも良い人選が行われるように工夫されているようです。
こうした「選考会」は、選手のモチベーションを格段に高めます。
選ばれるために必死に力をアピールしたり、そのための努力を自立的に行うようになったりします。
こうした「意識の変化」に結びつくような活動が、「トップジュニア委員会」の「選手育成事業」としてもっとも意義のあることだと考えました。
「海外遠征派遣選手選考会開催要項」の「開催主旨」にはこう書いてあります。
海外遠征派遣選手の「選考会」を実施します。「トップジュニア委員会」は、海外遠征に行って活躍できる選手をより客観的に選ぶとともに、高い向上意識を持ってもらうためにどのような方法が良いのかを検討してきました。そして、「選考会」の方式が選手の力を確実に把握でき、モチベーションを向上させるもっとも適切な方法であると考えました。
ワールドジュニアやジュニアデビスカップ、ジュニアフェドカップなどの代表選考に関しても、ひとつの大会の成績に寄らず何度かの「選考会」を実施し、より良い成績を残せる選手を選抜して成果を挙げています。
単に海外遠征を行うだけでは意識や意欲を高めることには繋がりません。選抜された候補選手の「選考会」を通してお互いをライバルとして認め、尊敬できるような関係を築くことでその持っている能力をさらに高めることができると思います。
こうした「選考会」を行って「海外遠征派遣選手」を選びます。もちろん、選考は厳しいものになります。何名を選出するのか、という明確な規定はありません。もしかすると選考される選手がいない場合も考えられます。実力があっても、派遣選手としてふさわしくないと判断された場合はメンバーから外れる場合もあります。
厳しい姿勢で臨むことで、選考された選手の持っている能力を最大限に引き出すためのきっかけになります。「世界にチャレンジする」高い目標意識も生まれます。このような一連の活動が「トップジュニア委員会」の目指す「選手育成事業」であり、単に海外遠征を行うだけにとどまらない「意義のある活動」だと確信しています。こうした理念にもとづいて「選考会」を実施しますので、高い意識を持って参加してほしいと思います。
「選考会」の具体的な内容はまだ決まってはいませんが、基本的にたくさん試合をして、その試合の内容を中心に選考したいと考えています。
もちろん、何回かの「選考会」を実施する予定です。そうした「選考会」を通して交流を深め、チームとしての意識も高くなれば良いと考えています。
「選考会」は14歳以下と12歳以下の選手について行いますが、現段階でのメンバーは「トップジュニア委員会」のホームページにアップしてあります。
14歳以下の選手については、このメンバーに加えて、8月に開催される「ヤングスターカップ(U14)」の上入賞者から選考されたメンバーを加えて「選考会」を実施します。
12歳以下の選手については、メンバーを決定していますが、メンバーを変更する場合もあります。
「選考会」までにはまだ時間があります。自分の力を高めるための努力を惜しまなかった選手を選びたいと考えていますので、がんばって練習してほしいと思います。
「選考会」の詳しい内容につきしては、「トップジュニア委員会」のホームページにアップされています「海外遠征派遣選手選考会開催要項」をご覧下さい。
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2007年06月26日
敗戦から学ぶ(923)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -17-
海外の遠征では、自分の弱さをみせつけられることも多い。
敗戦から学ぶことは、<自分の弱さ>だ。
弱いから負ける。まず、この事実を認識することからはじめなければならない。
それが十分に認識できたら、次は、弱さの原因についてとことん考えてみよう。
技術的に未熟な点、体力面で補わなければならないポイント、試合中に感じたメンタル面での課題など、多くの原因が考えられるだろう。
戦術的なミスが思い浮かぶかもしれない。それらを書き出してみるのも良い。
それも本当は試合直後が望ましいが、試合直後は敗戦のショックで頭が混乱している場合も多いだろう。
しかし、その敗戦によって打ちひしがれ、テニスを辞める瀬戸際まで追い込まれていないのなら(追い込まれていたら分析どころではない)、できるだけ早いうちに強く記憶にとどめるべきだ。
一流選手は、このような自己分析が明確にできる。
一流選手は、勝ち負けに関係なく試合後のインタビューが義務付けられているので、記者の質問などに答えながら冷静に試合を振り返り、自己分析をする習慣が身についている。
そうすることによって、ミスや敗因を強く記憶にとどめ、弱点を克服する方法や次に勝つための戦術などについての質の高いイメージを持つことができるのだ(杉原ほか「スポーツ心理学の世界」福村出版)。
また、自分の弱さを認識し、次の戦いに向けて自分の気持ちを奮い立たせるには、敗れた悔しさや、負けた選手に対する嫉妬心を強く感じるような感性が必要だと思う。
もし、あなたが、負けた悔しさを感じないのなら、敗れた相手に嫉妬しないのなら選手としての感性はあまり高くないのかもしれない。
本当の意味で自分の弱さを知る。
・
・
・
ここから本当の強さはスタートする。
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海外の遠征では、自分の弱さをみせつけられることも多い。
敗戦から学ぶことは、<自分の弱さ>だ。
弱いから負ける。まず、この事実を認識することからはじめなければならない。
それが十分に認識できたら、次は、弱さの原因についてとことん考えてみよう。
技術的に未熟な点、体力面で補わなければならないポイント、試合中に感じたメンタル面での課題など、多くの原因が考えられるだろう。
戦術的なミスが思い浮かぶかもしれない。それらを書き出してみるのも良い。
それも本当は試合直後が望ましいが、試合直後は敗戦のショックで頭が混乱している場合も多いだろう。
しかし、その敗戦によって打ちひしがれ、テニスを辞める瀬戸際まで追い込まれていないのなら(追い込まれていたら分析どころではない)、できるだけ早いうちに強く記憶にとどめるべきだ。
一流選手は、このような自己分析が明確にできる。
一流選手は、勝ち負けに関係なく試合後のインタビューが義務付けられているので、記者の質問などに答えながら冷静に試合を振り返り、自己分析をする習慣が身についている。
そうすることによって、ミスや敗因を強く記憶にとどめ、弱点を克服する方法や次に勝つための戦術などについての質の高いイメージを持つことができるのだ(杉原ほか「スポーツ心理学の世界」福村出版)。
また、自分の弱さを認識し、次の戦いに向けて自分の気持ちを奮い立たせるには、敗れた悔しさや、負けた選手に対する嫉妬心を強く感じるような感性が必要だと思う。
もし、あなたが、負けた悔しさを感じないのなら、敗れた相手に嫉妬しないのなら選手としての感性はあまり高くないのかもしれない。
本当の意味で自分の弱さを知る。
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ここから本当の強さはスタートする。
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2007年06月25日
競い合い(922)
そういえば先週、下の娘の運動会がありました。
ほとんどすべての競技に勝敗がついて、赤組対白組の対抗戦になっていて盛り上がっています。
一時期は、手をつないでゴールとか、「競い合い」のない運動会ということでいろいろと工夫されたみたいですが、ちゃんと(?)元に戻って活気ある運動会になったように思います。
スポーツは基本的に「競い合い」です。
そのため、「勝つためには手段を選ばない」というような意識も生まれることになります。
あるプロ野球の球団のお金にまつわる話も、「勝つ」ということだけを最優先にした結果ではないかと思います。
このようなことがあると「競い合いはいかん!」ということになるのでしょうが、「競い合い」の中から学ぶことはたくさんあります。
そうした「競い合い」の良い面をきちんと教えることで、人間はその能力を伸ばすことができます。
「良きライバル」を持つことで自分の能力が上がることは多くの選手が経験しています。
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「競い合い」は、「負けたくない」という気持ちを高めます。
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「負けたくない」という気持ちは、「自分を追い込む力」になります。
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「自分を追い込む力」を持った選手は、「自分の能力を限界まで引き上げる」ことができます。
こんな「競い合い」が生まれるクラブを作っていきたいですね。
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2007年06月24日
遠征に出る-冒険の薦め-(921)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -16-
現在のテニスを取り巻く環境では、なかなかこうしたサバイバル的な過酷な状況に身を置くことは難しいだろう。
また、学校を卒業してしまった人もいる。
では、一人で海外の試合やキャンプに遠征に出るのはどうだろうか。
異国の地に一人で足を踏み入れるのは、正直言って怖い。
少なくとも私はそうだった。
初めての外国で言葉が通じず、ハンバーガーばかり食べていたのを思い出す(日本のハンバーガーと味が変わらないことに妙に感心した覚えがある)。
遠征は一種の冒険である。
頼る者のいない中で、恐怖や不安と戦いながら、すべてのことを自分でするという経験は、感性を磨くまたとないチャンスなのだ。
岩月謙司(同)は、<冒険のような経験を通して智恵と勇気を獲得する>と言っている。
私もその通りだと思う。
もちろん、自律した意志と自立した精神(自立についてはいずれ述べる)がなければ何の効果も無いが、そんな奴は敢えてチャレンジしようとはしない。
海外が無理でも、国内の試合にチャレンジしたり、高名なコーチに教えを請うことも勇気がいるだろう。
大切なのは怖くても<冒険する勇気を持つ>ということである。
以前、紹介した元フェド杯監督の本井満氏は、過酷な南米への遠征を毎年のように行っている。
その遠征中の練習やトレーニング内容は相当ハードだし、選手に自立を促す大変きつい言葉を投げかける(この人は普段は温厚なのに、コートに入ると人が変わったように厳しくなる)。
なぜ、過酷な南米の遠征を好んで行うのかという質問には、「厳しいから」とあっさりと言う(本当、めちゃめちゃ厳しいっすよ)。
過酷な環境下において、厳しい長期の遠征を行うことで選手としての感性が大きく伸びると確信しているのだ。
その方法が正しいのかどうかを私には判断できないが、少なくとも苦しみを体験して、そこから何かをつかむとても良い機会になっていると思う。
冒険は可能性を開く大きなチャンスである。
ぜひトライしていただきたい。
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現在のテニスを取り巻く環境では、なかなかこうしたサバイバル的な過酷な状況に身を置くことは難しいだろう。
また、学校を卒業してしまった人もいる。
では、一人で海外の試合やキャンプに遠征に出るのはどうだろうか。
異国の地に一人で足を踏み入れるのは、正直言って怖い。
少なくとも私はそうだった。
初めての外国で言葉が通じず、ハンバーガーばかり食べていたのを思い出す(日本のハンバーガーと味が変わらないことに妙に感心した覚えがある)。
遠征は一種の冒険である。
頼る者のいない中で、恐怖や不安と戦いながら、すべてのことを自分でするという経験は、感性を磨くまたとないチャンスなのだ。
岩月謙司(同)は、<冒険のような経験を通して智恵と勇気を獲得する>と言っている。
私もその通りだと思う。
もちろん、自律した意志と自立した精神(自立についてはいずれ述べる)がなければ何の効果も無いが、そんな奴は敢えてチャレンジしようとはしない。
海外が無理でも、国内の試合にチャレンジしたり、高名なコーチに教えを請うことも勇気がいるだろう。
大切なのは怖くても<冒険する勇気を持つ>ということである。
以前、紹介した元フェド杯監督の本井満氏は、過酷な南米への遠征を毎年のように行っている。
その遠征中の練習やトレーニング内容は相当ハードだし、選手に自立を促す大変きつい言葉を投げかける(この人は普段は温厚なのに、コートに入ると人が変わったように厳しくなる)。
なぜ、過酷な南米の遠征を好んで行うのかという質問には、「厳しいから」とあっさりと言う(本当、めちゃめちゃ厳しいっすよ)。
過酷な環境下において、厳しい長期の遠征を行うことで選手としての感性が大きく伸びると確信しているのだ。
その方法が正しいのかどうかを私には判断できないが、少なくとも苦しみを体験して、そこから何かをつかむとても良い機会になっていると思う。
冒険は可能性を開く大きなチャンスである。
ぜひトライしていただきたい。
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2007年06月23日
坊主頭(920)
今日は散髪の日でした。
といっても床屋に行くわけではなく、自分でバリカンのようなものを使って刈っていきます。
使い始めの日に使い方を間違えてくりんくりんの丸坊主になってからは(写真はその時のものです)、要領も良くなってすいすいと刈ることができるようになりました。
ほとんど丸坊主と変わりませんが、刈りおわると何ともいえないすがすがしい気持ちになります。
私は野球部のトレーニングも指導していますので、野球少年たちとはよく顔をあわせます。
愛工大名電高校野球部は、中にはスポーツ刈りもいるようですが基本的には坊主頭です。
刈り上がったばかりの頭をなぜながら、なぜスポーツでは坊主頭が多いのかふと疑問に思いました。
野球に限らず、他のスポーツでは坊主頭の選手を見ることはあります。
多分、それは「覚悟の印」だからです。
昔は剃髪や切り髪はまさに「覚悟」を示すものでした。
その名残ではないのかと思うのです。
大切なものを失うことで「このスポーツに賭けた!」という覚悟」を示すものだと思います。
では、テニスの選手にそういう選手がいないのはなぜなのでしょうか。
まだまだ「覚悟」が甘いということなのかもしれません。
つんつん頭にピンで髪を留めて、なんていう選手は私のところには練習に来てほしくはないですね。
みんなも私を見習って、「覚悟の坊主頭」で試合に臨む、なんてのもいいかもしれません。
でも、ちょっと気持ち悪いですかね(確かにちょっと・・・)。
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2007年06月23日
プライドを持つ(919)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -15-
私がそのような過酷な状況に耐えることができたもっとも大きな理由は、テニスをやっているという<プライド>である。
「俺は、テニスを、こんなに苦しくてもがんばっている。」
「お前たちとは違うんだ!」
「俺は青春をテニスというスポーツにかけている。」
・
・
・
という<思い>が自分を支えていた。
スポーツに打ち込んでいる人間は、何もしていない人間よりも価値があると強く信じていたのだ(今も少なからずそう思っている)。
強い絆で結ばれる仲間でも、「あいつが辞めないのに、俺が辞めてなるものか。」という意地のぶつかり合いがある。
これが人間を行動に駆り立てる。
そこには毎日繰り返される過酷な状況に対する絶望はない。
V・E・フランクル(「夜と霧」みすず書房)は、第二次大戦下のドイツ軍強制収容所における人間の心理を克明に記している。
その中には、「どのような過酷な状況でも人間としての尊厳を失わず、自分に与えられた仕事を誇りを持ってやり遂げようとする人がいた」と書かれている。
生き残った多くの人は、このような尊厳を持ち続けることができた人なのだ。
もちろん、そのような人でも惨殺された人は何万もいるだろうが、少なくとも、絶望に打ちひしがれ、生きる気力を失ってしまった人にはそのチャンスは少なかったと思われる。
また、その本の中で、「苦しむことはなにかをなしとげること」という言葉が大変印象に残っている。
なにかを本気になって成し遂げようとすれば、苦しみは避けては通れない。
その苦しみの中でもプライドを失わず、それにかける思いを持ち続けることで強くなれることを教えてくれているように思う。
<本当の苦しさ>を味わったとき、この言葉の<本当の意味>が見えてくるのかもしれない。
実は、私はテニスがそれほど好きではない。
練習もあまり好きではなかった。
テニスをしなければフラストレーションがたまるというようなことはない。
もちろん嫌いではないが、私にとってテニスは自己実現のための手段である。
つまり、テニスをやっている自分や、テニスを教えている自分が好きなのであり、それをより高みにもっていきたいからプライドを高く持って努力する。
そうなると、すべての人間がライバルである。
スポーツの枠を超えて、あらゆる成功者に負けたくない気持ちでいる。
成功者の活躍には賛辞を送りながら、それを超える自分になるにはどうしたら良いのかをいつも考えている。
絶望している暇など無いのだ。
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私がそのような過酷な状況に耐えることができたもっとも大きな理由は、テニスをやっているという<プライド>である。
「俺は、テニスを、こんなに苦しくてもがんばっている。」
「お前たちとは違うんだ!」
「俺は青春をテニスというスポーツにかけている。」
・
・
・
という<思い>が自分を支えていた。
スポーツに打ち込んでいる人間は、何もしていない人間よりも価値があると強く信じていたのだ(今も少なからずそう思っている)。
強い絆で結ばれる仲間でも、「あいつが辞めないのに、俺が辞めてなるものか。」という意地のぶつかり合いがある。
これが人間を行動に駆り立てる。
そこには毎日繰り返される過酷な状況に対する絶望はない。
V・E・フランクル(「夜と霧」みすず書房)は、第二次大戦下のドイツ軍強制収容所における人間の心理を克明に記している。
その中には、「どのような過酷な状況でも人間としての尊厳を失わず、自分に与えられた仕事を誇りを持ってやり遂げようとする人がいた」と書かれている。
生き残った多くの人は、このような尊厳を持ち続けることができた人なのだ。
もちろん、そのような人でも惨殺された人は何万もいるだろうが、少なくとも、絶望に打ちひしがれ、生きる気力を失ってしまった人にはそのチャンスは少なかったと思われる。
また、その本の中で、「苦しむことはなにかをなしとげること」という言葉が大変印象に残っている。
なにかを本気になって成し遂げようとすれば、苦しみは避けては通れない。
その苦しみの中でもプライドを失わず、それにかける思いを持ち続けることで強くなれることを教えてくれているように思う。
<本当の苦しさ>を味わったとき、この言葉の<本当の意味>が見えてくるのかもしれない。
実は、私はテニスがそれほど好きではない。
練習もあまり好きではなかった。
テニスをしなければフラストレーションがたまるというようなことはない。
もちろん嫌いではないが、私にとってテニスは自己実現のための手段である。
つまり、テニスをやっている自分や、テニスを教えている自分が好きなのであり、それをより高みにもっていきたいからプライドを高く持って努力する。
そうなると、すべての人間がライバルである。
スポーツの枠を超えて、あらゆる成功者に負けたくない気持ちでいる。
成功者の活躍には賛辞を送りながら、それを超える自分になるにはどうしたら良いのかをいつも考えている。
絶望している暇など無いのだ。
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2007年06月22日
夏は大変!(918)
夏の予定表を作りました。
毎年のことながら、夏休み中の予定を立てるのは結構たいへんな作業です。
興味ある方はジュニアテニスネットワークのホームページから夏の予定表をご覧ください。
夏休みに入ったとたんに試合のスケジュールがぎっしりです。
その上、合宿や遠征もあるので「息つく暇がない」というような感じですね。
今までは、県内の試合予定だけを考えれば良かったのですが、最近では他府県の予定も考慮しなければなりません。
子ども達の力がついてきたので、全国大会や地域大会の出場者も増え、そのサポートも大変になってきました。
その上、寮の管理が加わります。
正直、これでやっていけるのかあ、と思いますが、なんだかわくわくするような気持ちもあります。
大変な思いをしてサポートしますが、子ども達はちゃんと素晴らしいドラマを見せてくれるからです。
歓喜の雄叫びあり、悔し涙あり、喜びや悲しみ、怒りなどの感情が大きく交錯する素晴らしいドラマです。
そんなドラマを見てみたい、話題作の封切前のわくわくするような気持ちと同じですね。
きっと子ども達は今年も素晴らしいドラマを見せてくれると思います。
思いっきり感情移入して楽しみたいと思います。
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2007年06月21日
クラブ活動の薦め-本物の友人に出会う-(917)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -14-
苦しさの中に本当のスポーツの素晴らしさが潜んでいるのなら、自ら進んで苦しい思いに身を投じてみるのはいかがだろう。
いまどきのクラブ活動は、それほどでもないかもしれないが、それなりに適度な理不尽(?)の存在するクラブも多いはずだ。
私が以前コーチを務めていた慶應義塾大学テニス部は、昔ながらの理不尽、非合理を体験できる貴重なクラブと言ってよい(でも、とても良いクラブだった)。
このようなクラブに身を置くと、自分がなぜテニスをやるのかという意味をしっかりと認識できるチャンスになる(本当かな?)。
私たちの時代のクラブ活動について話をしよう。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「すぐに過去の話を持ち出して、それを栄光の業績であるかのように語るのは、権威的傾向の強い人である」というが、勝負に弱い日本人が増えてきたのは、<スポーツの苦しみ>について語らなくなったことが原因のひとつであると考えるので、あえて批判を覚悟で述べてみたい。
ひと昔前のクラブ活動は、理不尽極まりないことがまかり通っていた(一部のクラブは今もそうであろう)。
3年神様、2年人間、1年畜生という言葉ができるくらい、1年生は1年間の過酷な試練に耐えなければクラブ活動を続けることさえできないのだ。
私が高校でテニスを始めたときは、コートが1面しかないクラブにもかかわらず入部希望者はざっと40名くらい(実際は一日で辞める部員もいるので、もっと多いはずである)。
それが、8月の合宿を終えるころには6、7人に激減する。
練習中の飲水はもちろん禁止、一日中ボール拾いに追われ、何百回と繰り返される素振りに耐え(当時は、ラケットカバーをつけて素振りをするのが主流(?)であった)、非合理的で理不尽なトレーニング(両手両足を縛られて、学校から先輩の乗るバスのバス停までピョンピョン跳びながら見送りに行かされるなど-ええ加減にせえよ!)に歯を食いしばり、やっと日没近くなって5分程度の練習が許されるという状況では、辞めていくのは無理もない。
では、辞めずに生き残った者(?)は、なぜそのような過酷な状況に耐えることができたのであろうか。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)は「人間がピンチに出会ったとき、悩むことが飛躍につながる人と、そのままなかなか立ち直れずに、より深刻な問題に落ち込んでいく人との違いは、サポーターがいるかいないかが大きな分かれ目になる。」と述べている。
私の場合は仲間の存在が大きかった。
ともに励ましあい、競い合う仲間がいなければ辞めていただろう。
本当に良い友人たちに恵まれた。
私は、もちろん戦争を経験していないので大きなことは言えないが、これを<戦友意識>と呼びたい。
過酷な状況では、友情はより強く結ばれる(もちろん、逆に反感や憎悪が大きくなる場合があることは知っている。俺の嫌いなM!お前のことだよ!)。
そして、くじけそうになるとき、強く結ばれた友情が何よりも助けになるのだ。
彼らは今でも私の大きな支えである。
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苦しさの中に本当のスポーツの素晴らしさが潜んでいるのなら、自ら進んで苦しい思いに身を投じてみるのはいかがだろう。
いまどきのクラブ活動は、それほどでもないかもしれないが、それなりに適度な理不尽(?)の存在するクラブも多いはずだ。
私が以前コーチを務めていた慶應義塾大学テニス部は、昔ながらの理不尽、非合理を体験できる貴重なクラブと言ってよい(でも、とても良いクラブだった)。
このようなクラブに身を置くと、自分がなぜテニスをやるのかという意味をしっかりと認識できるチャンスになる(本当かな?)。
私たちの時代のクラブ活動について話をしよう。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「すぐに過去の話を持ち出して、それを栄光の業績であるかのように語るのは、権威的傾向の強い人である」というが、勝負に弱い日本人が増えてきたのは、<スポーツの苦しみ>について語らなくなったことが原因のひとつであると考えるので、あえて批判を覚悟で述べてみたい。
ひと昔前のクラブ活動は、理不尽極まりないことがまかり通っていた(一部のクラブは今もそうであろう)。
3年神様、2年人間、1年畜生という言葉ができるくらい、1年生は1年間の過酷な試練に耐えなければクラブ活動を続けることさえできないのだ。
私が高校でテニスを始めたときは、コートが1面しかないクラブにもかかわらず入部希望者はざっと40名くらい(実際は一日で辞める部員もいるので、もっと多いはずである)。
それが、8月の合宿を終えるころには6、7人に激減する。
練習中の飲水はもちろん禁止、一日中ボール拾いに追われ、何百回と繰り返される素振りに耐え(当時は、ラケットカバーをつけて素振りをするのが主流(?)であった)、非合理的で理不尽なトレーニング(両手両足を縛られて、学校から先輩の乗るバスのバス停までピョンピョン跳びながら見送りに行かされるなど-ええ加減にせえよ!)に歯を食いしばり、やっと日没近くなって5分程度の練習が許されるという状況では、辞めていくのは無理もない。
では、辞めずに生き残った者(?)は、なぜそのような過酷な状況に耐えることができたのであろうか。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)は「人間がピンチに出会ったとき、悩むことが飛躍につながる人と、そのままなかなか立ち直れずに、より深刻な問題に落ち込んでいく人との違いは、サポーターがいるかいないかが大きな分かれ目になる。」と述べている。
私の場合は仲間の存在が大きかった。
ともに励ましあい、競い合う仲間がいなければ辞めていただろう。
本当に良い友人たちに恵まれた。
私は、もちろん戦争を経験していないので大きなことは言えないが、これを<戦友意識>と呼びたい。
過酷な状況では、友情はより強く結ばれる(もちろん、逆に反感や憎悪が大きくなる場合があることは知っている。俺の嫌いなM!お前のことだよ!)。
そして、くじけそうになるとき、強く結ばれた友情が何よりも助けになるのだ。
彼らは今でも私の大きな支えである。
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2007年06月21日
弱点(916)
私には「弱点」があります。それは扁桃腺です。
ちょっと気温が下がったり、体調が思わしくない時などに腫れてきます。
体調管理のバロメーターのようなものかもしれません。
この間、夜少し気温が下がって肌寒く感じましたが、試合が近いこともあって長い時間マッチ練習を見ていました。
気がつくと、何となく呼吸もしにくくなる程度にのどがはれています。
こんな時に一番嫌なのが、活舌がさらに悪くなることです。
たださえ聞き取りにくかったり、かんでしまうことが多いのに、のどが腫れればなおさらです。
こんなもの無くなってしまえばいいのになあ、と思いますが、体調管理のバロメーターだと思えば「それもまた良し」です。
「無病息災」という言葉があります。
病気も何も無く健康でいられることを表す言葉だと思いますが、あるTV番組で、
「無病であることで自分を過信してしまい、重大な病気になってから気付くことがあるので、長生きにはつながらない。少し病気を持っていると、常に自分の体のことを気遣うようになるので、それが長生きにつながっていきます。だから一病息災なのではないでしょうか。」
というようなことを言っていたのを記憶しています。
そういう意味で、私の扁桃腺は「弱点」ではあるけれども、体調のことを考えるきっかけになっている、という点でとても「大切な機能」を持っているということになるのではないでしょうか。
テニスでも同じではないのかなあ、と考えたりしました。
自分に「弱点」があると、それが原因で強くなれないと短絡的に考えるのではなく、
「弱点」を持っているからこそ、それを克服しようと懸命に練習する「意欲」が生まれてくる。
だから、何かしらの「弱点」を持っている方が「息の長い選手として活躍できる」というふうに考える方が良いのかもしれません。
「完璧」な人間はいません。
「完璧」な人間になることが素晴らしいのではなく、そうなろうと「努力」することが素晴らしい、私はそう思います。
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2007年06月20日
苦しみは成長の条件であると思え(915)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -13-
一度くらいはテニスを辞めてしまおうと思うほどの衝撃を受けることがある。
テニスは一生懸命やってきた。
でも・・・
やっても、やっても
思うように成績が上がらなかったり、
小さいころの成績が良かったために親の過剰な期待がプレッシャーになったり、
コーチの思いがけない一言で大きく傷ついたり、
テニスを辞めたくなるきっかけは至る所にある。
人間は所詮弱い生き物であり、些細なことで情熱を失うこともあるだろう。
私は多くのそんな選手たちを見てきた。
かける言葉はない。
正直言えば、胸の詰まるような何ともいえない悲しい気持ちになるが、それはその選手の選択だと言い聞かせるようにしている(でも、寝れない時だってあるのだ)。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)によると、「人間が飛躍的に大きくなるためには、死ぬような大病をすること、浪人すること、破廉恥罪ではなく刑務所に入ることだ」といわれる。
好きでテニスを始めたのに、それが苦しくて、耐え切れないのは、大げさに言えば大病で死線を彷徨うようなものだ。
でも、その気持ちを振り払い、立ち上がってきた選手は、やはり何かが違う。
多分、テニスに対する<考え方>が変わったのだろう。
「強さ」と選手としての「感性」を身につけている。
これがスポーツの本当の素晴らしさ、本当の歓びだと思う。
多くの選手には良い選択をしてほしい。
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一度くらいはテニスを辞めてしまおうと思うほどの衝撃を受けることがある。
テニスは一生懸命やってきた。
でも・・・
やっても、やっても
思うように成績が上がらなかったり、
小さいころの成績が良かったために親の過剰な期待がプレッシャーになったり、
コーチの思いがけない一言で大きく傷ついたり、
テニスを辞めたくなるきっかけは至る所にある。
人間は所詮弱い生き物であり、些細なことで情熱を失うこともあるだろう。
私は多くのそんな選手たちを見てきた。
かける言葉はない。
正直言えば、胸の詰まるような何ともいえない悲しい気持ちになるが、それはその選手の選択だと言い聞かせるようにしている(でも、寝れない時だってあるのだ)。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)によると、「人間が飛躍的に大きくなるためには、死ぬような大病をすること、浪人すること、破廉恥罪ではなく刑務所に入ることだ」といわれる。
好きでテニスを始めたのに、それが苦しくて、耐え切れないのは、大げさに言えば大病で死線を彷徨うようなものだ。
でも、その気持ちを振り払い、立ち上がってきた選手は、やはり何かが違う。
多分、テニスに対する<考え方>が変わったのだろう。
「強さ」と選手としての「感性」を身につけている。
これがスポーツの本当の素晴らしさ、本当の歓びだと思う。
多くの選手には良い選択をしてほしい。
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2007年06月19日
何が何でも(914)
今日のマッチ練習で、「勝つ意欲」の感じられない試合を2つ見ました。
試合後、感情の高ぶりを抑えて冷静にアドバイスを送りました(・・・つもり)。
子ども達は、「負けたくない」と一生懸命にやっています。
でも、「勝つ意欲」が感じられないとはどういうことでしょうか。
「勝つ」ためにしなければならないことを頭では理解できていると思いますが、「感情を伴って身体表現できていない」ということです。
人間はいろいろな性格があるので、どのように「表現」したら良いのかということは分かりません。
「静かな闘争心」が生に合う人もいれば、「熱い雄雄叫び」が気持ちを高める人もいるでしょう。
しかし、どんな表現であろうとも、
「ボールに対する執着心」が感じられない試合は意味がありません。
身体表現が乏しくても、どんなボールにも食らいつく姿勢が高ければ相手はそれに威圧されます。
「これ」が「勝つ」ためには「もっとも大切なこと」であることを忘れています。
だから、自分のペースが崩れます。
だから、ミスが続きます。
だから、感情が乱れて集中できません。
だから、負けることに対する恐怖が大きくなります。
・
・
・
「ボールに対する執着心」が低いからです。
もう一度、こころに刻んでほしいと思います。「ボールに対する執着心」を持てと・・・。
私は「何が何でも」という言葉が好きです。
泥臭い(?)言葉ですが、決して後には引かない、どんなことにもくじけない、絶対にあきらめない、という強い意志が感じられる言葉だからです。
子ども達には「何が何でも」強くなってほしい。
そのためには自分のできることは「何が何でも」やりきろうと思っています。
この思いが子ども達に届けばいいな・・・と思います。
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2007年06月18日
言い訳するな(913)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -12-
一生懸命にやっていない者は、そんなにやっていないから負けても仕方がないという言い訳を自分の中に作っている。
だから、負けることに対する恐怖は大きくはない。
「テニスは楽しいからがんばります。」は、その悲しみや苦しみという恐怖を経験しようとする一歩手前で引いている自分自身に対する言い訳に過ぎない。
言い訳をする者は、大切な場面でも、まず言い訳をして自分自身を安全な場所(人には非難されないように)に置きながら、自分自身をもごまかしてしまうのだ。
岩月謙司(「女は男のどこを見ているか」ちくま新書)は、「言い訳という行為は、自分にウソをつく行為」と、<言い訳というウソ>を厳しく批判している(男はこうはなりたくないものだ!)。
「テニスは苦しい。でも、テニスをやっている自分が大好き。だから苦しくてもがんばる。がんばっているから、また喜びも大きい。だから楽しい。」
が、本当の意味である。
楽しんで、趣味の域でやっているテニスに本当の喜びはないし、<強さの降臨>はない。
<死にもの狂い>、これは古い言葉ながらとても大切な言葉だ。
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一生懸命にやっていない者は、そんなにやっていないから負けても仕方がないという言い訳を自分の中に作っている。
だから、負けることに対する恐怖は大きくはない。
「テニスは楽しいからがんばります。」は、その悲しみや苦しみという恐怖を経験しようとする一歩手前で引いている自分自身に対する言い訳に過ぎない。
言い訳をする者は、大切な場面でも、まず言い訳をして自分自身を安全な場所(人には非難されないように)に置きながら、自分自身をもごまかしてしまうのだ。
岩月謙司(「女は男のどこを見ているか」ちくま新書)は、「言い訳という行為は、自分にウソをつく行為」と、<言い訳というウソ>を厳しく批判している(男はこうはなりたくないものだ!)。
「テニスは苦しい。でも、テニスをやっている自分が大好き。だから苦しくてもがんばる。がんばっているから、また喜びも大きい。だから楽しい。」
が、本当の意味である。
楽しんで、趣味の域でやっているテニスに本当の喜びはないし、<強さの降臨>はない。
<死にもの狂い>、これは古い言葉ながらとても大切な言葉だ。
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2007年06月17日
1年の重み(912)
昨日と今日は、先週雨で順延になった東海中日の予選が行われました。
多くの子ども達が東海大会の切符を手に入れてとても嬉しく思います。
また、昨年の今頃のことを思い返して、とても不思議な感じがしています。
昨年のこの大会に出場すらできなかった子や、1、2回戦で簡単に敗退していた子ども達が堂々と戦って出場権を獲得していきます。
この1年はあっという間のような気がしますが、子ども達にとっては、とても「重み」のある大きな一年であることを思い知らされます。
子ども達の成長は早いものです。
そして、確実に成長しています。
その成長をこうした成果として確認できるのがこの仕事の楽しさであり、素晴らしさであるとあらためて感じています。
東海大会の切符を手に入れた選手は、東海大会でもがんばって全国大会の切符を手に入れてほしいですね。
そして、惜しくも負けてしまった選手も、来年までに大きく成長してほしいと思います。
朝練から始まり、選抜練習、試合観戦、午後の選抜練習と続いたので一日中外にいて日焼けした肌が痛いです。
寝不足なので、何となく頭がぼうっとして重いです。
でも、とても心地の良い感じがします。とても良い一日でした。
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2007年06月15日
テニスを楽しむな-どん底を経験する-(911)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -11-
試合では、悔しい敗戦を喫した子どもにかける言葉に窮するのが常だ。
安田女子大学の友末先生の連載に「どんな励まし方をしたとしても、君の気持ちは切り替わらないでしょう。ああ、困ったなあ……。」と書いてある。
この「ああ、困ったなあ……。」は、まさにそのときの私の心境である(友末先生は10年以上の付き合いのある私の先輩であるが、何よりもこの人に惹かれるのは、このような<人に対する感性>である)。
巷にあふれるポジティブ・シンキング的なメンタル・トレーニングは、敗戦のショックから立ち直り、またもう一度テニスをやってみようかという気持ちに差し掛かったときに、なんとなく、心にすうっと入っていくものであり、容赦のない限界を突きつけられたときに、そのような考え方にたどり着くとは思えない。
選手は誰もが懸命に戦っている。
負けたいと思って戦う者などいない。
しかし、打っても打っても通用しない。
何をして良いのかわからない。
本当に残酷なのだが、努力で埋まらない限界がはっきりと示されるのだ。
こんなときに、何をかける言葉があるのか。
私も友末先生と同じように、一緒に肩を落とし、ため息をつき、気持ちが自然に切り替わるのをじっと待つしかない。
スポーツの残酷さを嘆きながら、一緒に涙することしかできないのだ。
このような<苦しみ>がスポーツの本質である。
しかし、その<苦しみ>の中に、選手としての感性を磨く種がまかれているのも真実である。
このような<苦しみ>を幾度となく経験し、「どん底の中であがいた人間だけが感じる本当の歓び」(友末)を手に入れた者が強くなる。
しかし、<どん底を経験する>ことは大変に難しい。
実はどん底を経験するにはいくつかの条件があるのだ。
なによりもテニスに対して一生懸命に取り組んでいなければならない。
あるテレビ番組で、コーチが指導する生徒に対して「一生懸命やればやるほど、その悲しみは大きくなる。それがスポーツだし、スポーツとは本来そういうもので、残酷なものだ。」と説いていた。
そう、スポーツは一生懸命にやればやるほど、苦しみ、悲しみは大きくなるということをこのコーチは知っている。
一生懸命に努力すると、なんとなく自信が付いてくるのだが、その反面、「こんなにやったのに負けたらどうしよう!」と、負けることに対する恐怖が大きくなる。
その恐怖は振り払うことができない。
なぜなら一生懸命に取り組んでいる<自分自身が恐怖を作っている>からである。
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試合では、悔しい敗戦を喫した子どもにかける言葉に窮するのが常だ。
安田女子大学の友末先生の連載に「どんな励まし方をしたとしても、君の気持ちは切り替わらないでしょう。ああ、困ったなあ……。」と書いてある。
この「ああ、困ったなあ……。」は、まさにそのときの私の心境である(友末先生は10年以上の付き合いのある私の先輩であるが、何よりもこの人に惹かれるのは、このような<人に対する感性>である)。
巷にあふれるポジティブ・シンキング的なメンタル・トレーニングは、敗戦のショックから立ち直り、またもう一度テニスをやってみようかという気持ちに差し掛かったときに、なんとなく、心にすうっと入っていくものであり、容赦のない限界を突きつけられたときに、そのような考え方にたどり着くとは思えない。
選手は誰もが懸命に戦っている。
負けたいと思って戦う者などいない。
しかし、打っても打っても通用しない。
何をして良いのかわからない。
本当に残酷なのだが、努力で埋まらない限界がはっきりと示されるのだ。
こんなときに、何をかける言葉があるのか。
私も友末先生と同じように、一緒に肩を落とし、ため息をつき、気持ちが自然に切り替わるのをじっと待つしかない。
スポーツの残酷さを嘆きながら、一緒に涙することしかできないのだ。
このような<苦しみ>がスポーツの本質である。
しかし、その<苦しみ>の中に、選手としての感性を磨く種がまかれているのも真実である。
このような<苦しみ>を幾度となく経験し、「どん底の中であがいた人間だけが感じる本当の歓び」(友末)を手に入れた者が強くなる。
しかし、<どん底を経験する>ことは大変に難しい。
実はどん底を経験するにはいくつかの条件があるのだ。
なによりもテニスに対して一生懸命に取り組んでいなければならない。
あるテレビ番組で、コーチが指導する生徒に対して「一生懸命やればやるほど、その悲しみは大きくなる。それがスポーツだし、スポーツとは本来そういうもので、残酷なものだ。」と説いていた。
そう、スポーツは一生懸命にやればやるほど、苦しみ、悲しみは大きくなるということをこのコーチは知っている。
一生懸命に努力すると、なんとなく自信が付いてくるのだが、その反面、「こんなにやったのに負けたらどうしよう!」と、負けることに対する恐怖が大きくなる。
その恐怖は振り払うことができない。
なぜなら一生懸命に取り組んでいる<自分自身が恐怖を作っている>からである。
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2007年06月14日
10周年(910)
昨年、私がロングウッドでプレーヤーズコースを開校してから10年が経ち、「10周年記念パーティー」を開催しました。
たくさんの人に集まっていただき、思わず涙を流してしまったのはちょっと恥ずかしいですが、とても良い記念になりました。
何かを始めて、いろいろなことを乗り越えて「10年」続けるということは、とても意味のあることだと思います。
実は、昨日も「10周年」の記念日でした。
何の記念日 かというと・・・・
私が禁煙して、昨日で丸10年が経ったのです
10年前の6月13日以来、一度もたばこを口にしていません。
以前はたばこのにおい(煙ではありませんよ)は好きでしたが、今では嫌いになりました。
人間、変われば変わるものです。
私が禁煙しようと決めたのは、トレーニングを指導していたある生徒さんの一言でした。
その経緯をテニスジャーナルにこう書きました。
それまで、何度となく禁煙に失敗し(禁煙ガムもだめ、禁煙本ももちろんだめだった)、そのつど適当な言い訳を考え、自分自身をごまかしていた意志の弱い自分が、ある日を境にキッパリとタバコをやめることができたのである。
忘れもしない、6年前(今から10年前)の6月13日である。
娘の誕生日が6月6日(ビヨン・ボルグと同じなんだぞ!すごいでしょ!オーメンのダミアンとも同じだけど)なので、その日を境にやめようと思ったのだが、「自分の記念日にするのだから、自分の誕生日(8月16日)のほうが良い!」などと勝手に考えて、その翌日には気持ちよくたばこを吸っていたのを覚えている(なんて意志が弱い奴だ!)。
しかし、その1週間後、私の意識は変わった。
それは、あるお客さんの何気ない一言だった。
「タバコを吸っている(プロの)トレーナーっているの?」と、何気なく投げかけられた言葉にがんと頭を打たれた。
その時、「多くの人は、トレーナーとは自分自身をきちんとコントロールすることができる人だという認識を持っている。もし、タバコを吸っている私の姿を見たら、誰もトレーニングを指導してほしいだろうとは思わないだろう。」との考えが頭を駆け巡った。
それと同時に、それまでの浅はかな自分の考えを痛感させられた。
このことは鮮明に覚えている。
そして、そのときから一度としてタバコを口にしていない。
・
・
ということです。
何でもないようなことが大きく影響を与えることがあります。
「自分のこころに何か響いたのであれば、その意志のままに動いた方が良い」、ということを「このこと」から学びました。
あれから・・・10年が経ちました。
私だけの、ちょっとした、でも、とても大切な記念日です。
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2007年06月13日
コミュニケーションの力(909)
昨日は何年か振りにOBの芙美が訪ねてきてくれました。
もう大学を卒業して社会人1年生らしいですが、月日の経つのは早いものです。
彼女はぱっと見るとテニスがうまそうには見えませんが(失礼!)、実はダブルスでインターハイベスト16の輝かしい実績を誇っています。
彼女の特徴というのは、いつでも、どんな時でも「ニコニコ」とパートナーと楽しそうに「コミュニケーション」をとることです。
本当はとっても泣き虫さんですが、試合ではまったくそんなことは思わせないで、キャーキャー言いながら試合を楽しむことができます。
ダブルスで、もっとも大切なことは、この「コミュニケーション」の能力だと思います。
そういう意味で、彼女はその才能に恵まれていたということではないでしょうか。
最近の子ども達のダブルスを見ていると、この能力が欠けているので、肝心な場面で力を発揮できないことが多いように思います。
「コミュニケーション」を辞書で調べると、「言葉による意志・思想などの伝達」と書いてあります。
言葉だけではなく、態度や雰囲気も含めて、お互いがうまく意思を伝え合うことができるのが「コミュニケーション」です。
ダブルスでは、この力がとても大きな力になることをよく理解してほしいと思います。
パートナーがミスをしたら励ましの言葉をかけ、笑顔で気持ちを高めることができ、ナイスショットにはこころから喜びを表し、お互いがお互いの気持ちを高めることを第一に考えて試合ができれば、きっと素晴らしい試合になります。
ダブルスにはシングルスにはない素晴らしい魅力があります。
それは、二人の選手が力をあわせて戦おうとする「コミュニケーションの力」を見ることができるからです。
そんな「力」を持って戦う姿が見たいものです。
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2007年06月12日
勝負師としての感性を磨け-勝負するこころを高める-(908)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -10-
嶋田出雲(「スポーツに強くなる方法」不味堂)は面白いことを書いている。
「スポーツにおいて何をしてよいか分からないほど不幸なことはない。賭けられないのは無知だからである。囲碁、将棋、麻雀の面白さは、誰でも一回一回多くの選択肢があり、その強さは「選ぶ力(ベスト・チョイスの力)」にある。これは人生もスポーツも同様である。そのため、賭けの力が勝負(幸と不幸)の分岐点になるといっても過言ではないだろう。」
テニスはもちろん勝敗のつくスポーツである。
そして、圧倒的な技量の差がある場合を除いて、競り合いの中で勝敗を決するのはこの「賭けの力」である。
私の指導する選手にも、当然、勝負強い奴と勝負弱い奴はいる。
勝負強い奴は、「よくこんなところで勝負にいけるなあ」というところで思い切って攻めたり、相手の攻勢に対して辛抱強く防御したり、その判断が適切であると感じる。
嶋田は、「賭けの力」として、過去の経験や成績(データ)から確率の高いものを選んで実行する確率の力、攻守待の使い分けの力、攻め手のレパートリーの力、深さ、正確さ、速さが勝負を決する読みの力、賭ける根拠を引き出す情報の力を挙げている。まさにその通りだと思う。
また、高橋浩(「頭のいい人悪い人」PHP)によると、大石内臓助の師であった江戸時代の兵法学者の山鹿素行は、「察気というのは、まず実際の細かな動き・現象をよく見て十分に現象を把握し、ついでにその背後にあるものを見抜き、そしてそれが生ずる根本要因を洞察する。これが察気ということである。」と著したそうである。
よく観察して相手の状態を知り、その上で勝つための最良の方法を選択することが重要なのはいうまでもなく、<今そうした状態にある>という心理までも洞察して、最も優れた選択をすることで勝利は確実に自分のものになることを示している。
私は不良学生(不良浪人生であった時期もあるが)であったことが功を奏して(?)、麻雀とトランプ、パチンコで生活を支えた時期がある。
私の相手は主に同じテニスクラブのコーチ連中であり、支払いは月末清算という形を取っていたのだが、一度としてお金を払ったことがない。
この方たちに生活を支えていただいた、という感謝の気持ちでいっぱいである。本当にありがとう!
振り返って考えてみると、私が負けなかったのは何よりも研究熱心であったことに尽きる。
お金があまりないのだから<負けられない>のだ。そのためには負けない工夫を誰よりもする必要があった。
もちろん!本はたくさん読んだ(このときはお金があまりなかったので、立ち読みに結構な時間を使った)。
ひとつの手を作るときも、常に相手の動向に気を配り、その一枚のカードや牌が出されたときの背景を推察し、攻めるべきか引くべきかを判断し、決断する。そうして勝ってきた。
そのようなことをやり続けることは大変な集中力を必要とするが、<負けられない意志>が強ければ平気である。
よく、麻雀やパチンコは<運>が良ければ勝てるといわれるが、このようなことを平気で言えるのは<勝負師としての感性>がない証拠である。
私は、不正なことをしないで勝ち続ける純然たるプロが存在するものには、勝利の法則が存在することを疑わない。
麻雀では、20年間無敗の伝説の雀師桜井章一がいる。勝負師としての感性を磨きたいのなら、この人の書いた本(「雀鬼流」三五館など)を一読することを薦める。
偶然や運が大きく勝敗を左右するといわれるパチンコでさえも、谷村ひとしという漫画家兼パチンカーはその収支をはっきりと示し、何千万円も勝っているのだ。
私も不正なことはただの一度もすることなく、百万円以上勝っている(最近はあまり行けないのが悩みであるが・・・・)。
もちろん、自分自身のものの考え方もあるし、好き嫌いや相性の問題もあるので、その通りに行動して勝つことを期待しているのではない。
ただ、厳しい勝負の世界で不正をすることなく確実に勝っている人がいる、そして、そうした人たちは<勝負師として感性>を高いレベルで持っているという事実を受け止めてほしいだけである。
負ける人は、<勝つためにやらなければならないこと>をやっていないから負ける。
どのような勝負事であれ、準備を万全にし、よく観察し、よく思考して作戦を立て、思い切って決断することができて勝利することができる。
負ける人はそれを忘れているか、もしくは偶然の勝利を期待して努力することを放棄しているのである。
もちろん偶然で勝つこともあるだろう。しかし、偶然の勝利に浮かれているうちは勝負師としての感性や勘は磨かれないことは肝に銘じておこう。
斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)は、「75%当たっても、それが偶然であることをしっかりと受け止め、有頂天にならない人もいるのです。たとえそのことに成功しても、やり方は自分にはわかっていない、だから自分はコントロールしていないのだ、と冷静に状況を判断している人もいるのです。こういう人こそ賢人と言えるかもしれません。」と賢人たる資質について示唆を与えている。
真の賢人になるには遠い道のりだが、一歩踏み出したほうが得だと思う。
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嶋田出雲(「スポーツに強くなる方法」不味堂)は面白いことを書いている。
「スポーツにおいて何をしてよいか分からないほど不幸なことはない。賭けられないのは無知だからである。囲碁、将棋、麻雀の面白さは、誰でも一回一回多くの選択肢があり、その強さは「選ぶ力(ベスト・チョイスの力)」にある。これは人生もスポーツも同様である。そのため、賭けの力が勝負(幸と不幸)の分岐点になるといっても過言ではないだろう。」
テニスはもちろん勝敗のつくスポーツである。
そして、圧倒的な技量の差がある場合を除いて、競り合いの中で勝敗を決するのはこの「賭けの力」である。
私の指導する選手にも、当然、勝負強い奴と勝負弱い奴はいる。
勝負強い奴は、「よくこんなところで勝負にいけるなあ」というところで思い切って攻めたり、相手の攻勢に対して辛抱強く防御したり、その判断が適切であると感じる。
嶋田は、「賭けの力」として、過去の経験や成績(データ)から確率の高いものを選んで実行する確率の力、攻守待の使い分けの力、攻め手のレパートリーの力、深さ、正確さ、速さが勝負を決する読みの力、賭ける根拠を引き出す情報の力を挙げている。まさにその通りだと思う。
また、高橋浩(「頭のいい人悪い人」PHP)によると、大石内臓助の師であった江戸時代の兵法学者の山鹿素行は、「察気というのは、まず実際の細かな動き・現象をよく見て十分に現象を把握し、ついでにその背後にあるものを見抜き、そしてそれが生ずる根本要因を洞察する。これが察気ということである。」と著したそうである。
よく観察して相手の状態を知り、その上で勝つための最良の方法を選択することが重要なのはいうまでもなく、<今そうした状態にある>という心理までも洞察して、最も優れた選択をすることで勝利は確実に自分のものになることを示している。
私は不良学生(不良浪人生であった時期もあるが)であったことが功を奏して(?)、麻雀とトランプ、パチンコで生活を支えた時期がある。
私の相手は主に同じテニスクラブのコーチ連中であり、支払いは月末清算という形を取っていたのだが、一度としてお金を払ったことがない。
この方たちに生活を支えていただいた、という感謝の気持ちでいっぱいである。本当にありがとう!
振り返って考えてみると、私が負けなかったのは何よりも研究熱心であったことに尽きる。
お金があまりないのだから<負けられない>のだ。そのためには負けない工夫を誰よりもする必要があった。
もちろん!本はたくさん読んだ(このときはお金があまりなかったので、立ち読みに結構な時間を使った)。
ひとつの手を作るときも、常に相手の動向に気を配り、その一枚のカードや牌が出されたときの背景を推察し、攻めるべきか引くべきかを判断し、決断する。そうして勝ってきた。
そのようなことをやり続けることは大変な集中力を必要とするが、<負けられない意志>が強ければ平気である。
よく、麻雀やパチンコは<運>が良ければ勝てるといわれるが、このようなことを平気で言えるのは<勝負師としての感性>がない証拠である。
私は、不正なことをしないで勝ち続ける純然たるプロが存在するものには、勝利の法則が存在することを疑わない。
麻雀では、20年間無敗の伝説の雀師桜井章一がいる。勝負師としての感性を磨きたいのなら、この人の書いた本(「雀鬼流」三五館など)を一読することを薦める。
偶然や運が大きく勝敗を左右するといわれるパチンコでさえも、谷村ひとしという漫画家兼パチンカーはその収支をはっきりと示し、何千万円も勝っているのだ。
私も不正なことはただの一度もすることなく、百万円以上勝っている(最近はあまり行けないのが悩みであるが・・・・)。
もちろん、自分自身のものの考え方もあるし、好き嫌いや相性の問題もあるので、その通りに行動して勝つことを期待しているのではない。
ただ、厳しい勝負の世界で不正をすることなく確実に勝っている人がいる、そして、そうした人たちは<勝負師として感性>を高いレベルで持っているという事実を受け止めてほしいだけである。
負ける人は、<勝つためにやらなければならないこと>をやっていないから負ける。
どのような勝負事であれ、準備を万全にし、よく観察し、よく思考して作戦を立て、思い切って決断することができて勝利することができる。
負ける人はそれを忘れているか、もしくは偶然の勝利を期待して努力することを放棄しているのである。
もちろん偶然で勝つこともあるだろう。しかし、偶然の勝利に浮かれているうちは勝負師としての感性や勘は磨かれないことは肝に銘じておこう。
斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)は、「75%当たっても、それが偶然であることをしっかりと受け止め、有頂天にならない人もいるのです。たとえそのことに成功しても、やり方は自分にはわかっていない、だから自分はコントロールしていないのだ、と冷静に状況を判断している人もいるのです。こういう人こそ賢人と言えるかもしれません。」と賢人たる資質について示唆を与えている。
真の賢人になるには遠い道のりだが、一歩踏み出したほうが得だと思う。
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2007年06月11日
「わな」にはまる(907)
寮生の子ども達がブログを書き始めて、10日ほど経ちましたが、「もう、書くことがなああ~い」と喚くようになってきました
まあ、「書く」ということはそんなに簡単なことではないので、書き続けることはむつかしいことです。
特に「書く」ことに慣れていないと、「なんか良いことを書こう」とか、「みんなにコメントをもらえるような文章を書こう」とか思いすぎて、自分の気持ちや思いを素直に「書く」ことができません。
それが続くと、何となく「あれっこれは自分の文ではないな」と気づき、だんだんと「書く」ことが億劫になってきます。
これが最初の「わな」です。
また、コメントがあると「書く」意欲を高めることになりますが、逆にコメントを求める気持ちばかりが高くなると、コメントがないことで意欲を失ってしまいます。
これが第2の「わな」ですね。
そうそう多くのコメントをもらえるわけではありません。コメントをもらえることを「期待」しすぎることで失望感が大きくなってしまいます。
「期待」をしすぎないで、今、自分の感じたことを書くことだけに気持ちが向けられれば良いのですが、なかなかそうは行かないのが人間です。
子どもに「期待」をかけすぎる親の心理とよく似ているかもしれませんね。
そして、「何かを書こう」と意欲的なときは、ちょっとしたことで感動したり、イメージが膨らんだり、「感受性」が豊かになります。
これが「書く」ことの大切な効果です。
しかし、「書く」ことが日常化してくると、その「感受性」が鈍り、「もう、書くことがなああ~い」ということになってきます。
これは第3の大変に深い「わな」です。
「わな」にはまると抜け出すのはなかなか大変です。
子ども達は「わな」にはまりかけていますが、まだ抜け道はありそうです。
最初の「わな」からうまく抜け出すと、次の「わな」にははまりにくくなり、だんだんと「わな」にはまらない知恵が身についてきます。
うまく抜け道を見つけて、自分の文を書き続ける力がつけばいいなあと思います。
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2007年06月10日
強くなりたいあなたに -9- (906)
強くなる法則 -9- 「本に頼ってはいけない」
感性は放っておいて磨かれるものではない。
本もただ読めばよいというものではない。
その中から自分の指標となるものを探り出し、そして記憶することが感性や思考力を磨く第一歩となる。
本の内容をただ丸暗記しても意味はない(全部暗記できたら、それはそれでかなりすごいことだが)。
著者が言わんとすることを、その立場にたって理解すること、そして、それを自分の考えに結び付けて適切な意味づけをすることがとても大切なのだ。
斎藤孝の言うように、「読んだ本の内容を人に話す」ことは、本の内容を記憶することには大変効果的であるが、ちょっとかじり読みした本の文を自慢げに話す奴に限ってろくな奴はいない。
本物の前にはもろくもその愚かしさを露呈してしまう。
学者のように深く研究した人が本物であるということではない(学者に対する批判を吉本隆明(「幸福論」青春出版社)は痛快に述べているが、まさにその通りである)。
本物とは自分の言葉で話すことができる人のことである。
自分が本当にそう感じたことを飾らず素直に語ることができれば、あなたも本物になれる。
もちろん、どの本も崇高な目的のために書かれているのではない。
真実とは異なることを堂々と書いて、あなたを困惑させる本も少なくない。
それに惑わされないように、自分の理念を持ち、それに照らし合わせて判断したいものだ。
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感性は放っておいて磨かれるものではない。
本もただ読めばよいというものではない。
その中から自分の指標となるものを探り出し、そして記憶することが感性や思考力を磨く第一歩となる。
本の内容をただ丸暗記しても意味はない(全部暗記できたら、それはそれでかなりすごいことだが)。
著者が言わんとすることを、その立場にたって理解すること、そして、それを自分の考えに結び付けて適切な意味づけをすることがとても大切なのだ。
斎藤孝の言うように、「読んだ本の内容を人に話す」ことは、本の内容を記憶することには大変効果的であるが、ちょっとかじり読みした本の文を自慢げに話す奴に限ってろくな奴はいない。
本物の前にはもろくもその愚かしさを露呈してしまう。
学者のように深く研究した人が本物であるということではない(学者に対する批判を吉本隆明(「幸福論」青春出版社)は痛快に述べているが、まさにその通りである)。
本物とは自分の言葉で話すことができる人のことである。
自分が本当にそう感じたことを飾らず素直に語ることができれば、あなたも本物になれる。
もちろん、どの本も崇高な目的のために書かれているのではない。
真実とは異なることを堂々と書いて、あなたを困惑させる本も少なくない。
それに惑わされないように、自分の理念を持ち、それに照らし合わせて判断したいものだ。
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2007年06月09日
新しいシステム(905)
今日行われる予定でした試合は雨のために中止になりました。
自然を相手にすることなのでこういうことはよくあります。仕方ないですね。
でも、明らかに雨で中止と分かっているのに会場まで行かなければならない、というのは何とかならないものでしょうか。
協会の大会関係の掲示板を作って、それを閲覧すれば大会に関する情報を知ることができる、なんていうシステムが良いですね。
大会の中止なんかも、会場の担当者が開催の有無を判断して書き込むだけでオーケーなので、担当される関係者の方も対応に追われることがなくて良いと思います。
何よりも雨の中を重いバッグを持って、中止の連絡を受けるためだけに会場に行かなくてはならない選手や親にとっては、とてもありがたいシステムだと思います。
私がジュニア委員長というような立場にあれば即座に導入を検討するところですが、なかなか組織というのは動きが鈍いものです。
新しくて便利なものを導入するというのは当たり前の考え方ですが、それをうまく使いこなすためには”情報”が必要になります。
その”情報”を手に入れて理解するまではなかなか面倒くさいので、そんな時は”今まで通り”がいろいろな理屈を従えてまかり通っていきます。
”教育的な”とか”平等に”などというのは強力な理屈になりますが、それが実情に合っていない場合は大変厄介です。
私の時代は朝から全員が会場に行って、一日中待機なんてことはざらにありましたから、少しは改善されたとはいえ、あまり進歩していないということですね。
組織の動きは遅いものです。機能的なシステムはなかなか実現できそうにありませんが、いつかは私が・・・・、そんな思いでいます。
もうしばらくお待ちください・・・・ほんと?
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2007年06月08日
プロ意識(904)
今日の午前中で今回の高岸知代プロのトレーニング指導を終了しました。
「真剣勝負」なので大変疲れますが、今は心地良い疲労感を感じています。
寮を作ってからは、名古屋へに来るたびに寮に宿泊してもらってトレーニングを指導するようになりました。
これは「プロ選手」と共に生活することで、寮生のみんなにその「プロ意識」に触れてもらいたいという気持ちからです。
「プロ」は、単にテニスが強いから「プロ」ではありません。
「プロ」たる「意識」が深く確立されているから「プロ」なのです。
こうしたことは言葉で説明しても良く分かりません。実際に接してみて、その「凄さ」を体感することで何となく理解していきます。
私が高岸知代プロにいつも感心するのは、「自立した生活力」です。
中学の時から親元を離れて生活し、プロ選手になることだけを目指して生きてきた「強さ」を感じる時でもあります。
自分の荷物の管理は言うに及ばず、洗濯や掃除などは完璧にこなします。実に迅速です。
今回は、特製カレーに肉じゃがまで作っていただき、ご馳走になりました。じつにうまい!
毎日配達される食材の残りを使って、簡単な料理を作って、寮生のお弁当のおかずまで用意してくれました。
それを気負わずに、無理をすることなく、当たり前のように行動する力、これが「プロ」を支える根幹的な力であると思います。
こうした「プロ意識」に触れて、子ども達は何かを感じたでしょうか。
明日から東海中日ジュニアの予選が始まります。
全日本という大きな舞台に向けての試合なので、大きな緊張感に襲われるかもしれません。
そんな時に、今までやってきた練習に対する自信や夢にかける力が支えになれば良いと思います。
そして、その繰り返しの中で、「プロ意識」に目覚める子ども達が出てくれば素晴らしいと思います。
「プロ」だから「プロ意識」を持っているのではありません。
「プロ意識」、それは「力を引き出すキーワード」であることを忘れないで戦ってほしいと思います。
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2007年06月07日
強くなりたいあなたに -8- (903)
強くなる法則 -8- 「本を読め」
感性を磨くとして、いったいどのような方法があるのだろう。
一番身近な方法としては本を読むことである。
私がどれくらいの本を読むのかというと、スポーツ・運動関係の専門誌を6誌、テニス専門誌を1誌、その他学会の関係雑誌を4誌ほど定期的に講読している。
それ以外には、コンピューター専門誌とDIY(日曜大工)の専門誌を1誌づつ半分趣味として購読している。
本は新刊、文庫を問わず、頻繁に本屋に足を運んだり、インターネット上の仮想書店での注文書を含め毎月かなりの冊数の本を購入し、読んでいる(自慢げにみえたらごめんなさい!)。
中には、そのような本という知識(?)に頼らずに自分の感性を磨く奴もいる。
私の友人に本誌のコラムや連載でもおなじみの松島徹(あえて敬称略)がいるが、彼とは同じ年ということで(とてもそうは見えない!私のほうが10歳は若く見えるぞ!)、懇意にテニスの話をしたりする。
彼は、自分のホームページに「本など読まない!」と書いているが、それを補う<行動力>を持っている(<行動力>を鍛える方法についてはいずれ述べる)。
まさに<体で学習する>タイプの人間なのだ。
ただし、並み大抵の行動力では学び得ること、感性を磨くことは到底不可能である。そこまでの労力を払い、貧乏生活を甘受できないのであれば、本を読むほうが実際的であると思う。
斎藤孝(「読書力」岩波新書)は、「読書とは単に情報の摂取のためにあるばかりではない。思考力を鍛え、人間を作るものだと。」明言し、「本は読まなければならない。」と断言している。
たしかに、自分自身の生き方を大きく左右するような本にめぐり合うこともあるので、できる限り本は読んだほうが良いとは思うが、勢子浩爾(「ぶざまな人生」洋泉社)がいうように、私も「本を読むバカを見すぎた」ので、本を読むことだけで人間の品格や、感性が磨かれるものでないことは承知している。ただ、実際的な方法としては大変有効であることはたしかだ。
なにも難しい本を額に汗して、無理して読む必要はない。マンガ本でも良いのである。
「なにっ!マンガだ!」と訝しく思った人もいるのではないだろうか。
「ちょっと待て!」、マンガ本を馬鹿にしてはいけない。そこにはとても深い示唆に富んだ、ひょっとしたらあなたの感性を揺さぶる場面に出くわすことになるかもしれないのだ。
私の愛読する<週間少年マガジン(講談社)>には「はじめの一歩」や「ゴッドハンド輝」など、実に素晴らしいマンガが連載されている。毎回感動し、涙することも多い。ここでは、2003年第7号より読者の皆さんに感動の内容をお伝えしたい。
感性を磨くとして、いったいどのような方法があるのだろう。
一番身近な方法としては本を読むことである。
私がどれくらいの本を読むのかというと、スポーツ・運動関係の専門誌を6誌、テニス専門誌を1誌、その他学会の関係雑誌を4誌ほど定期的に講読している。
それ以外には、コンピューター専門誌とDIY(日曜大工)の専門誌を1誌づつ半分趣味として購読している。
本は新刊、文庫を問わず、頻繁に本屋に足を運んだり、インターネット上の仮想書店での注文書を含め毎月かなりの冊数の本を購入し、読んでいる(自慢げにみえたらごめんなさい!)。
中には、そのような本という知識(?)に頼らずに自分の感性を磨く奴もいる。
私の友人に本誌のコラムや連載でもおなじみの松島徹(あえて敬称略)がいるが、彼とは同じ年ということで(とてもそうは見えない!私のほうが10歳は若く見えるぞ!)、懇意にテニスの話をしたりする。
彼は、自分のホームページに「本など読まない!」と書いているが、それを補う<行動力>を持っている(<行動力>を鍛える方法についてはいずれ述べる)。
まさに<体で学習する>タイプの人間なのだ。
ただし、並み大抵の行動力では学び得ること、感性を磨くことは到底不可能である。そこまでの労力を払い、貧乏生活を甘受できないのであれば、本を読むほうが実際的であると思う。
斎藤孝(「読書力」岩波新書)は、「読書とは単に情報の摂取のためにあるばかりではない。思考力を鍛え、人間を作るものだと。」明言し、「本は読まなければならない。」と断言している。
たしかに、自分自身の生き方を大きく左右するような本にめぐり合うこともあるので、できる限り本は読んだほうが良いとは思うが、勢子浩爾(「ぶざまな人生」洋泉社)がいうように、私も「本を読むバカを見すぎた」ので、本を読むことだけで人間の品格や、感性が磨かれるものでないことは承知している。ただ、実際的な方法としては大変有効であることはたしかだ。
なにも難しい本を額に汗して、無理して読む必要はない。マンガ本でも良いのである。
「なにっ!マンガだ!」と訝しく思った人もいるのではないだろうか。
「ちょっと待て!」、マンガ本を馬鹿にしてはいけない。そこにはとても深い示唆に富んだ、ひょっとしたらあなたの感性を揺さぶる場面に出くわすことになるかもしれないのだ。
私の愛読する<週間少年マガジン(講談社)>には「はじめの一歩」や「ゴッドハンド輝」など、実に素晴らしいマンガが連載されている。毎回感動し、涙することも多い。ここでは、2003年第7号より読者の皆さんに感動の内容をお伝えしたい。
2007年06月06日
誕生日(902)
今日は上の娘の誕生日でした。
なんと、ハンカチ王子と同じ誕生日らしいですが、本当?
まあ、誰の誕生日と同じであろうと娘の誕生日には違いはありませんね。
かつての名選手ビヨン・ボルグ選手とも同じ誕生日です。「オーメン」のダミアンとも同じですけど・・・ヘ(´o`)ヘ
実は娘の出産予定日は6月13日でした。
その時は娘にテニス選手になってもらいたかったので、「テニスが強くなるために、ボルグと同じ誕生日に生まれておいで」と事あるごとにつぶやいていました。
その胎教(?)が功を奏したのか、望み通りに6月6日に生まれてきました。
その時は、「願いって叶うもんだなあ」と妙に感心したりしていました。
その娘ももう15歳になりました。
歳月の進みは早いものですね。
いつまでこうして誕生日をお祝いするのでしょうか。
いつまでも丸い誕生日ケーキを囲んで、ロウソクに火をつけ、ハッピー・バースディを歌う、そんな家族でありたいと思います。
誕生日、オ・メ・デ・ト・ウ!!!
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2007年06月05日
強くなりたいあなたに -7- (901)
強くなる法則 -7- 「基本法則-7つの(K) ⑦コーチ」
これは厳密に言えば、Cであるが、日本語的にKということでお許し願いたい。
強くなるためにコーチの存在は欠かせない。
しかし、なかなか良いコーチにめぐり合うことは少ない。
良いコーチとは、ずばり「視野の広い」コーチである。
知識の量、人間的な度量、幅広い交友関係など様々な選手の感性を幅広く受け止めることができるコーチが良いコーチである。
そういうコーチにめぐり合うには、自分のアンテナも広く張っておかなければならない。
志向性が偏っていると、めぐり合いの機会は少ないだろう。
西に良いコーチあると聞けば行って話を聞き、東に良いコーチがあると聞けば実際に指導を受けてみるといった行動力が求められる。
そして、自分の感性に従って、「あっ、この人だ!」とピンときたら、その門戸を強引にでもたたいてみることが必要である。
私も、その一人として、あなたが門戸をたたいてくれるのを待っている。
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これは厳密に言えば、Cであるが、日本語的にKということでお許し願いたい。
強くなるためにコーチの存在は欠かせない。
しかし、なかなか良いコーチにめぐり合うことは少ない。
良いコーチとは、ずばり「視野の広い」コーチである。
知識の量、人間的な度量、幅広い交友関係など様々な選手の感性を幅広く受け止めることができるコーチが良いコーチである。
そういうコーチにめぐり合うには、自分のアンテナも広く張っておかなければならない。
志向性が偏っていると、めぐり合いの機会は少ないだろう。
西に良いコーチあると聞けば行って話を聞き、東に良いコーチがあると聞けば実際に指導を受けてみるといった行動力が求められる。
そして、自分の感性に従って、「あっ、この人だ!」とピンときたら、その門戸を強引にでもたたいてみることが必要である。
私も、その一人として、あなたが門戸をたたいてくれるのを待っている。
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2007年06月04日
共に戦う(900)
昨日から高岸知代プロがトレーニングに来てくれています。
プロの選手にトレーニングを指導するのは大変疲れます。
なぜなら、それを職業にしているなので、要求するレベルが高いからです。
成果が出なければ、それは直接、代価として評価されるのでちょっと怖いですね。
でも、だからこそ「真剣」にトレーニングをするし、それに応えるべく「真剣」に考えて指導します。
この「真剣勝負」は大変疲れますが、これが自分の気持ちをもっとも充実させる瞬間でもあります。
何ていえば良いのか分かりませんが、ある目標に向かって「共に戦う」意識とでもいうべきものが生まれます。
「戦友意識」と言えるかもしれません。
私は戦争を経験したわけではないので、大きなことは言えませんが、お互いの命を預けるくらいの信頼関係がなければ戦場を生き抜くことはむつかしいと思います。
大げさに言えば、そんな「感覚」を持って臨みます。
私はトレーニングのプログラムを考える時、そのトレーニングを積んでいけば、どう変わっていくのかということをイメージします。
プログラムを変えれば、当然イメージは少し変わります。
イメージを何度も何度も変えながら、最適なプログラムを探します。
そして、自分のイメージにもっともぴったりくるプログラムを探し出した時、イメージの中で選手は活き活きと動きだします。
この瞬間がトレーナーとして気持ちが高揚する時ですね。
今はそんな時間を過ごしています。
とても・・・・・幸せな時間です。
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2007年06月03日
強くなりたいあなたに -6- (899)
強くなる法則 -6- 「基本法則-7つの(K) ⑥苦心」
テニスの選手を志す以上、チャンピオンになることを夢見るに違いない。
でも、現実は大変に厳しい。
あなたは、がんばっても、がんばっても届かない栄冠に対して、「なぜ、私だけがこんなに不幸なのだ。」と嘆き悲しむかもしれない。
しかし、もしすべてあなたの想像するようにうまくいったとして、果たしてあなたは幸せだろうか。
苦しみがなくなれば、喜びもないといわれる。
苦労して、苦労して手に入れたときに人間は感動するのである。
しかし、もっと強い人間は、苦労そのものに喜びを見出すのである。
今、まさに苦労していて、それを乗り越えるためにさまざまな工夫をしている自分、その苦心の中から何かひらめきを得たときに感動できる自分がいたなら、きっとあなたは強くなる。
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テニスの選手を志す以上、チャンピオンになることを夢見るに違いない。
でも、現実は大変に厳しい。
あなたは、がんばっても、がんばっても届かない栄冠に対して、「なぜ、私だけがこんなに不幸なのだ。」と嘆き悲しむかもしれない。
しかし、もしすべてあなたの想像するようにうまくいったとして、果たしてあなたは幸せだろうか。
苦しみがなくなれば、喜びもないといわれる。
苦労して、苦労して手に入れたときに人間は感動するのである。
しかし、もっと強い人間は、苦労そのものに喜びを見出すのである。
今、まさに苦労していて、それを乗り越えるためにさまざまな工夫をしている自分、その苦心の中から何かひらめきを得たときに感動できる自分がいたなら、きっとあなたは強くなる。
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2007年06月02日
強くなりたいあなたに -5- (898)
強くなる法則 -5- 「基本法則-7つの(K) ⑤観察、興味、好奇心」
テニスの試合の興味を示さない人は成長しない。
真剣にテレビにかじりついて試合を見てほしい。
できれば、多くの試合に出かけていって実際の試合をじっくり見てほしい。
その選手のフットワークが素晴らしいとか、フォアハンドのストロークに切れがあるとか、そんな分析は必要ない。
ただ、じっと見れば良いのである。
もし、あなたが人並み以上の好奇心を持って試合を見続けるなら、あなたはその試合のプレーヤーに成り代わる。
ひとつひとつのショットに感情が移入される。
あなたは自分が経験できる以上の最高の舞台でプレーすることができる喜びで満ち溢れるに違いない。
素晴らしい試合は壮大なドラマである。
そのドラマの中の主役を想像上でも演じることで、いつのまにかあなたを素晴らしい高みに導いてくれることもある。
もし、あなたがこのような経験に興味も好奇心もなければ、自分が参加できる試合で勝った、負けたと騒ぐしか方法がない。
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テニスの試合の興味を示さない人は成長しない。
真剣にテレビにかじりついて試合を見てほしい。
できれば、多くの試合に出かけていって実際の試合をじっくり見てほしい。
その選手のフットワークが素晴らしいとか、フォアハンドのストロークに切れがあるとか、そんな分析は必要ない。
ただ、じっと見れば良いのである。
もし、あなたが人並み以上の好奇心を持って試合を見続けるなら、あなたはその試合のプレーヤーに成り代わる。
ひとつひとつのショットに感情が移入される。
あなたは自分が経験できる以上の最高の舞台でプレーすることができる喜びで満ち溢れるに違いない。
素晴らしい試合は壮大なドラマである。
そのドラマの中の主役を想像上でも演じることで、いつのまにかあなたを素晴らしい高みに導いてくれることもある。
もし、あなたがこのような経験に興味も好奇心もなければ、自分が参加できる試合で勝った、負けたと騒ぐしか方法がない。
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2007年06月01日
理屈っぽい(897)
私は、よく「理屈っぽい」と言われることがあります。
これは、良いことなのかな?悪いことなのかな?と、ふと考えました。
「理屈」を辞書で調べると、「世の多くの人が当然とする考え方」と書いてあります。
ということは、多くの人が当然であると思うような「理由」を「ちゃんと述べることができる人」のことだと解釈することができます。
これは、きっと良いことですね。
私はもともと大学教員で研究の現場にいたので、「これでいいんだろうか?」とか、「これは、こういうことじゃないんかな?」というように、いつも疑問を投げかける「クセ」が身についています。
だから、自分のすべきことに関しては、ちゃんとした「理由付け」がなくては気が治まらない性質になったようです。
レッスンのカリキュラムも、合宿や遠征の計画も、何か行動を起こそうとする時には何度もシュミレーションをして、湧き出る疑問に対して、できる限り正当な理由を考え、自分自身で納得できれば計画し、行動する「パターン」が出来上がりました。
何か大きな行動を起こそうとする時には、それこそ一日中考えています。何日も考える時だってあります。
傍から見るとぼうっとしてるように見えますが、あれやこれやと思索を巡らせています。
私はこういう時間が好きですね。
行動を起こすのは「勇気」がいるものです。だから、「納得できる理由」を探さなくてはなりません。
最終的には「えいやっ!」と思い切るのですが、「そこ」に至るまでの「想定の過程」が大変大切です。
そう考えると、「理屈っぽい」は無謀な計画や行動を抑制し、できる限り計画や行動を有意義なものにするために有効に働く資質ではないでしょうか。
私はいつも「理屈」を考えます。子ども達の未来のため、自分の未来のため、できるだけ自分の力が有効に働くようにするための手段だからです。
でも、「理屈っぽい人」より「理論的な人」と言われる方が良いかな。
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2007年06月01日
強くなりたいあなたに -4- (896)
強くなる法則 -4- 「基本法則-7つの(K)④カン」
「カン」が働くということはどういうことだろうか。
直感で物事を判断する第六感の能力のことで、自分の気が広く張り巡らされて、なんとなく自分にとって有利に働く方向が察知できるということだ。
道に迷っても、あらぬ方向に行かなくてすむ人は「カン」に優れている人だ。
「カン」は勝負場面ではとても大切な能力である。このコースにサービスを打てばうまくいく、相手は必ずここにボレーを打ってくる、それを瞬時に判断している。
道に迷ったときでも、なにげに目印からのルートが頭にはいっているし、状況から東西南北を察知して方向を決定するなど、知識、経験的なものがベースにあるのだが、それだけでは判断が下せない場面でも、「カン」の鋭い人は、それがぴたりとはまる。
あなたも一度くらい、見知らぬ土地で地図も持たずに旅に出てみると良いかもしれない。そして、どれだけ無駄なく目的地につけるか自分の「カン」を試してみてはいかがだろうか。
私の経験をお話しする。またしてもウィンブルドンに観戦に行ったときの話しだ。
空港でレンタカーを借りて、ロンドン市内のホテルに向かったのだが、地図が大きな縮尺のものしかなく、ほとんど役に立たないという状況であった。
しかも、ロンドンは交差点が少なく(ラウンドアウトという代物だ!)、大きな一方通行が多かったりと、運転するにはとても大変なとこなのだ。
そうこうするうちに日が暮れてきて、このままではホテルに着くのは難しいかもしれないと思いはじめたころ、なにげにすっと左に曲がった目の前に目的のホテルがあった。
ロンドンは看板の規制があり、派手な看板がないので、よく眼を凝らさないとそこがホテルかどうかも良く分からない。
ましてや、英語がそれほど得意でもない日本人旅行者にとってはなおさらである。
でも、不思議と私には自信があった。そして、その通り無事に目的のホテルに着くことができた。
このような経験は一度や二度ではない。私の持っている能力である。「カン」だけに頼ることの危険性は無論承知しているが、土壇場で、自分の力を発揮できる人は、この能力に優れている場合が多いことを知っておいて損は無い。
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「カン」が働くということはどういうことだろうか。
直感で物事を判断する第六感の能力のことで、自分の気が広く張り巡らされて、なんとなく自分にとって有利に働く方向が察知できるということだ。
道に迷っても、あらぬ方向に行かなくてすむ人は「カン」に優れている人だ。
「カン」は勝負場面ではとても大切な能力である。このコースにサービスを打てばうまくいく、相手は必ずここにボレーを打ってくる、それを瞬時に判断している。
道に迷ったときでも、なにげに目印からのルートが頭にはいっているし、状況から東西南北を察知して方向を決定するなど、知識、経験的なものがベースにあるのだが、それだけでは判断が下せない場面でも、「カン」の鋭い人は、それがぴたりとはまる。
あなたも一度くらい、見知らぬ土地で地図も持たずに旅に出てみると良いかもしれない。そして、どれだけ無駄なく目的地につけるか自分の「カン」を試してみてはいかがだろうか。
私の経験をお話しする。またしてもウィンブルドンに観戦に行ったときの話しだ。
空港でレンタカーを借りて、ロンドン市内のホテルに向かったのだが、地図が大きな縮尺のものしかなく、ほとんど役に立たないという状況であった。
しかも、ロンドンは交差点が少なく(ラウンドアウトという代物だ!)、大きな一方通行が多かったりと、運転するにはとても大変なとこなのだ。
そうこうするうちに日が暮れてきて、このままではホテルに着くのは難しいかもしれないと思いはじめたころ、なにげにすっと左に曲がった目の前に目的のホテルがあった。
ロンドンは看板の規制があり、派手な看板がないので、よく眼を凝らさないとそこがホテルかどうかも良く分からない。
ましてや、英語がそれほど得意でもない日本人旅行者にとってはなおさらである。
でも、不思議と私には自信があった。そして、その通り無事に目的のホテルに着くことができた。
このような経験は一度や二度ではない。私の持っている能力である。「カン」だけに頼ることの危険性は無論承知しているが、土壇場で、自分の力を発揮できる人は、この能力に優れている場合が多いことを知っておいて損は無い。
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