2007年06月21日
クラブ活動の薦め-本物の友人に出会う-(917)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -14-
苦しさの中に本当のスポーツの素晴らしさが潜んでいるのなら、自ら進んで苦しい思いに身を投じてみるのはいかがだろう。
いまどきのクラブ活動は、それほどでもないかもしれないが、それなりに適度な理不尽(?)の存在するクラブも多いはずだ。
私が以前コーチを務めていた慶應義塾大学テニス部は、昔ながらの理不尽、非合理を体験できる貴重なクラブと言ってよい(でも、とても良いクラブだった)。
このようなクラブに身を置くと、自分がなぜテニスをやるのかという意味をしっかりと認識できるチャンスになる(本当かな?)。
私たちの時代のクラブ活動について話をしよう。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「すぐに過去の話を持ち出して、それを栄光の業績であるかのように語るのは、権威的傾向の強い人である」というが、勝負に弱い日本人が増えてきたのは、<スポーツの苦しみ>について語らなくなったことが原因のひとつであると考えるので、あえて批判を覚悟で述べてみたい。
ひと昔前のクラブ活動は、理不尽極まりないことがまかり通っていた(一部のクラブは今もそうであろう)。
3年神様、2年人間、1年畜生という言葉ができるくらい、1年生は1年間の過酷な試練に耐えなければクラブ活動を続けることさえできないのだ。
私が高校でテニスを始めたときは、コートが1面しかないクラブにもかかわらず入部希望者はざっと40名くらい(実際は一日で辞める部員もいるので、もっと多いはずである)。
それが、8月の合宿を終えるころには6、7人に激減する。
練習中の飲水はもちろん禁止、一日中ボール拾いに追われ、何百回と繰り返される素振りに耐え(当時は、ラケットカバーをつけて素振りをするのが主流(?)であった)、非合理的で理不尽なトレーニング(両手両足を縛られて、学校から先輩の乗るバスのバス停までピョンピョン跳びながら見送りに行かされるなど-ええ加減にせえよ!)に歯を食いしばり、やっと日没近くなって5分程度の練習が許されるという状況では、辞めていくのは無理もない。
では、辞めずに生き残った者(?)は、なぜそのような過酷な状況に耐えることができたのであろうか。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)は「人間がピンチに出会ったとき、悩むことが飛躍につながる人と、そのままなかなか立ち直れずに、より深刻な問題に落ち込んでいく人との違いは、サポーターがいるかいないかが大きな分かれ目になる。」と述べている。
私の場合は仲間の存在が大きかった。
ともに励ましあい、競い合う仲間がいなければ辞めていただろう。
本当に良い友人たちに恵まれた。
私は、もちろん戦争を経験していないので大きなことは言えないが、これを<戦友意識>と呼びたい。
過酷な状況では、友情はより強く結ばれる(もちろん、逆に反感や憎悪が大きくなる場合があることは知っている。俺の嫌いなM!お前のことだよ!)。
そして、くじけそうになるとき、強く結ばれた友情が何よりも助けになるのだ。
彼らは今でも私の大きな支えである。
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苦しさの中に本当のスポーツの素晴らしさが潜んでいるのなら、自ら進んで苦しい思いに身を投じてみるのはいかがだろう。
いまどきのクラブ活動は、それほどでもないかもしれないが、それなりに適度な理不尽(?)の存在するクラブも多いはずだ。
私が以前コーチを務めていた慶應義塾大学テニス部は、昔ながらの理不尽、非合理を体験できる貴重なクラブと言ってよい(でも、とても良いクラブだった)。
このようなクラブに身を置くと、自分がなぜテニスをやるのかという意味をしっかりと認識できるチャンスになる(本当かな?)。
私たちの時代のクラブ活動について話をしよう。
岡本浩一(「無責任の構造」PHP新書)は、「すぐに過去の話を持ち出して、それを栄光の業績であるかのように語るのは、権威的傾向の強い人である」というが、勝負に弱い日本人が増えてきたのは、<スポーツの苦しみ>について語らなくなったことが原因のひとつであると考えるので、あえて批判を覚悟で述べてみたい。
ひと昔前のクラブ活動は、理不尽極まりないことがまかり通っていた(一部のクラブは今もそうであろう)。
3年神様、2年人間、1年畜生という言葉ができるくらい、1年生は1年間の過酷な試練に耐えなければクラブ活動を続けることさえできないのだ。
私が高校でテニスを始めたときは、コートが1面しかないクラブにもかかわらず入部希望者はざっと40名くらい(実際は一日で辞める部員もいるので、もっと多いはずである)。
それが、8月の合宿を終えるころには6、7人に激減する。
練習中の飲水はもちろん禁止、一日中ボール拾いに追われ、何百回と繰り返される素振りに耐え(当時は、ラケットカバーをつけて素振りをするのが主流(?)であった)、非合理的で理不尽なトレーニング(両手両足を縛られて、学校から先輩の乗るバスのバス停までピョンピョン跳びながら見送りに行かされるなど-ええ加減にせえよ!)に歯を食いしばり、やっと日没近くなって5分程度の練習が許されるという状況では、辞めていくのは無理もない。
では、辞めずに生き残った者(?)は、なぜそのような過酷な状況に耐えることができたのであろうか。
東山紘久(「悩みのコントロール術」岩波アクティブ新書)は「人間がピンチに出会ったとき、悩むことが飛躍につながる人と、そのままなかなか立ち直れずに、より深刻な問題に落ち込んでいく人との違いは、サポーターがいるかいないかが大きな分かれ目になる。」と述べている。
私の場合は仲間の存在が大きかった。
ともに励ましあい、競い合う仲間がいなければ辞めていただろう。
本当に良い友人たちに恵まれた。
私は、もちろん戦争を経験していないので大きなことは言えないが、これを<戦友意識>と呼びたい。
過酷な状況では、友情はより強く結ばれる(もちろん、逆に反感や憎悪が大きくなる場合があることは知っている。俺の嫌いなM!お前のことだよ!)。
そして、くじけそうになるとき、強く結ばれた友情が何よりも助けになるのだ。
彼らは今でも私の大きな支えである。
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2007年06月21日
弱点(916)
私には「弱点」があります。それは扁桃腺です。
ちょっと気温が下がったり、体調が思わしくない時などに腫れてきます。
体調管理のバロメーターのようなものかもしれません。
この間、夜少し気温が下がって肌寒く感じましたが、試合が近いこともあって長い時間マッチ練習を見ていました。
気がつくと、何となく呼吸もしにくくなる程度にのどがはれています。
こんな時に一番嫌なのが、活舌がさらに悪くなることです。
たださえ聞き取りにくかったり、かんでしまうことが多いのに、のどが腫れればなおさらです。
こんなもの無くなってしまえばいいのになあ、と思いますが、体調管理のバロメーターだと思えば「それもまた良し」です。
「無病息災」という言葉があります。
病気も何も無く健康でいられることを表す言葉だと思いますが、あるTV番組で、
「無病であることで自分を過信してしまい、重大な病気になってから気付くことがあるので、長生きにはつながらない。少し病気を持っていると、常に自分の体のことを気遣うようになるので、それが長生きにつながっていきます。だから一病息災なのではないでしょうか。」
というようなことを言っていたのを記憶しています。
そういう意味で、私の扁桃腺は「弱点」ではあるけれども、体調のことを考えるきっかけになっている、という点でとても「大切な機能」を持っているということになるのではないでしょうか。
テニスでも同じではないのかなあ、と考えたりしました。
自分に「弱点」があると、それが原因で強くなれないと短絡的に考えるのではなく、
「弱点」を持っているからこそ、それを克服しようと懸命に練習する「意欲」が生まれてくる。
だから、何かしらの「弱点」を持っている方が「息の長い選手として活躍できる」というふうに考える方が良いのかもしれません。
「完璧」な人間はいません。
「完璧」な人間になることが素晴らしいのではなく、そうなろうと「努力」することが素晴らしい、私はそう思います。
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