2007年06月12日
勝負師としての感性を磨け-勝負するこころを高める-(908)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -10-
嶋田出雲(「スポーツに強くなる方法」不味堂)は面白いことを書いている。
「スポーツにおいて何をしてよいか分からないほど不幸なことはない。賭けられないのは無知だからである。囲碁、将棋、麻雀の面白さは、誰でも一回一回多くの選択肢があり、その強さは「選ぶ力(ベスト・チョイスの力)」にある。これは人生もスポーツも同様である。そのため、賭けの力が勝負(幸と不幸)の分岐点になるといっても過言ではないだろう。」
テニスはもちろん勝敗のつくスポーツである。
そして、圧倒的な技量の差がある場合を除いて、競り合いの中で勝敗を決するのはこの「賭けの力」である。
私の指導する選手にも、当然、勝負強い奴と勝負弱い奴はいる。
勝負強い奴は、「よくこんなところで勝負にいけるなあ」というところで思い切って攻めたり、相手の攻勢に対して辛抱強く防御したり、その判断が適切であると感じる。
嶋田は、「賭けの力」として、過去の経験や成績(データ)から確率の高いものを選んで実行する確率の力、攻守待の使い分けの力、攻め手のレパートリーの力、深さ、正確さ、速さが勝負を決する読みの力、賭ける根拠を引き出す情報の力を挙げている。まさにその通りだと思う。
また、高橋浩(「頭のいい人悪い人」PHP)によると、大石内臓助の師であった江戸時代の兵法学者の山鹿素行は、「察気というのは、まず実際の細かな動き・現象をよく見て十分に現象を把握し、ついでにその背後にあるものを見抜き、そしてそれが生ずる根本要因を洞察する。これが察気ということである。」と著したそうである。
よく観察して相手の状態を知り、その上で勝つための最良の方法を選択することが重要なのはいうまでもなく、<今そうした状態にある>という心理までも洞察して、最も優れた選択をすることで勝利は確実に自分のものになることを示している。
私は不良学生(不良浪人生であった時期もあるが)であったことが功を奏して(?)、麻雀とトランプ、パチンコで生活を支えた時期がある。
私の相手は主に同じテニスクラブのコーチ連中であり、支払いは月末清算という形を取っていたのだが、一度としてお金を払ったことがない。
この方たちに生活を支えていただいた、という感謝の気持ちでいっぱいである。本当にありがとう!
振り返って考えてみると、私が負けなかったのは何よりも研究熱心であったことに尽きる。
お金があまりないのだから<負けられない>のだ。そのためには負けない工夫を誰よりもする必要があった。
もちろん!本はたくさん読んだ(このときはお金があまりなかったので、立ち読みに結構な時間を使った)。
ひとつの手を作るときも、常に相手の動向に気を配り、その一枚のカードや牌が出されたときの背景を推察し、攻めるべきか引くべきかを判断し、決断する。そうして勝ってきた。
そのようなことをやり続けることは大変な集中力を必要とするが、<負けられない意志>が強ければ平気である。
よく、麻雀やパチンコは<運>が良ければ勝てるといわれるが、このようなことを平気で言えるのは<勝負師としての感性>がない証拠である。
私は、不正なことをしないで勝ち続ける純然たるプロが存在するものには、勝利の法則が存在することを疑わない。
麻雀では、20年間無敗の伝説の雀師桜井章一がいる。勝負師としての感性を磨きたいのなら、この人の書いた本(「雀鬼流」三五館など)を一読することを薦める。
偶然や運が大きく勝敗を左右するといわれるパチンコでさえも、谷村ひとしという漫画家兼パチンカーはその収支をはっきりと示し、何千万円も勝っているのだ。
私も不正なことはただの一度もすることなく、百万円以上勝っている(最近はあまり行けないのが悩みであるが・・・・)。
もちろん、自分自身のものの考え方もあるし、好き嫌いや相性の問題もあるので、その通りに行動して勝つことを期待しているのではない。
ただ、厳しい勝負の世界で不正をすることなく確実に勝っている人がいる、そして、そうした人たちは<勝負師として感性>を高いレベルで持っているという事実を受け止めてほしいだけである。
負ける人は、<勝つためにやらなければならないこと>をやっていないから負ける。
どのような勝負事であれ、準備を万全にし、よく観察し、よく思考して作戦を立て、思い切って決断することができて勝利することができる。
負ける人はそれを忘れているか、もしくは偶然の勝利を期待して努力することを放棄しているのである。
もちろん偶然で勝つこともあるだろう。しかし、偶然の勝利に浮かれているうちは勝負師としての感性や勘は磨かれないことは肝に銘じておこう。
斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)は、「75%当たっても、それが偶然であることをしっかりと受け止め、有頂天にならない人もいるのです。たとえそのことに成功しても、やり方は自分にはわかっていない、だから自分はコントロールしていないのだ、と冷静に状況を判断している人もいるのです。こういう人こそ賢人と言えるかもしれません。」と賢人たる資質について示唆を与えている。
真の賢人になるには遠い道のりだが、一歩踏み出したほうが得だと思う。
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嶋田出雲(「スポーツに強くなる方法」不味堂)は面白いことを書いている。
「スポーツにおいて何をしてよいか分からないほど不幸なことはない。賭けられないのは無知だからである。囲碁、将棋、麻雀の面白さは、誰でも一回一回多くの選択肢があり、その強さは「選ぶ力(ベスト・チョイスの力)」にある。これは人生もスポーツも同様である。そのため、賭けの力が勝負(幸と不幸)の分岐点になるといっても過言ではないだろう。」
テニスはもちろん勝敗のつくスポーツである。
そして、圧倒的な技量の差がある場合を除いて、競り合いの中で勝敗を決するのはこの「賭けの力」である。
私の指導する選手にも、当然、勝負強い奴と勝負弱い奴はいる。
勝負強い奴は、「よくこんなところで勝負にいけるなあ」というところで思い切って攻めたり、相手の攻勢に対して辛抱強く防御したり、その判断が適切であると感じる。
嶋田は、「賭けの力」として、過去の経験や成績(データ)から確率の高いものを選んで実行する確率の力、攻守待の使い分けの力、攻め手のレパートリーの力、深さ、正確さ、速さが勝負を決する読みの力、賭ける根拠を引き出す情報の力を挙げている。まさにその通りだと思う。
また、高橋浩(「頭のいい人悪い人」PHP)によると、大石内臓助の師であった江戸時代の兵法学者の山鹿素行は、「察気というのは、まず実際の細かな動き・現象をよく見て十分に現象を把握し、ついでにその背後にあるものを見抜き、そしてそれが生ずる根本要因を洞察する。これが察気ということである。」と著したそうである。
よく観察して相手の状態を知り、その上で勝つための最良の方法を選択することが重要なのはいうまでもなく、<今そうした状態にある>という心理までも洞察して、最も優れた選択をすることで勝利は確実に自分のものになることを示している。
私は不良学生(不良浪人生であった時期もあるが)であったことが功を奏して(?)、麻雀とトランプ、パチンコで生活を支えた時期がある。
私の相手は主に同じテニスクラブのコーチ連中であり、支払いは月末清算という形を取っていたのだが、一度としてお金を払ったことがない。
この方たちに生活を支えていただいた、という感謝の気持ちでいっぱいである。本当にありがとう!
振り返って考えてみると、私が負けなかったのは何よりも研究熱心であったことに尽きる。
お金があまりないのだから<負けられない>のだ。そのためには負けない工夫を誰よりもする必要があった。
もちろん!本はたくさん読んだ(このときはお金があまりなかったので、立ち読みに結構な時間を使った)。
ひとつの手を作るときも、常に相手の動向に気を配り、その一枚のカードや牌が出されたときの背景を推察し、攻めるべきか引くべきかを判断し、決断する。そうして勝ってきた。
そのようなことをやり続けることは大変な集中力を必要とするが、<負けられない意志>が強ければ平気である。
よく、麻雀やパチンコは<運>が良ければ勝てるといわれるが、このようなことを平気で言えるのは<勝負師としての感性>がない証拠である。
私は、不正なことをしないで勝ち続ける純然たるプロが存在するものには、勝利の法則が存在することを疑わない。
麻雀では、20年間無敗の伝説の雀師桜井章一がいる。勝負師としての感性を磨きたいのなら、この人の書いた本(「雀鬼流」三五館など)を一読することを薦める。
偶然や運が大きく勝敗を左右するといわれるパチンコでさえも、谷村ひとしという漫画家兼パチンカーはその収支をはっきりと示し、何千万円も勝っているのだ。
私も不正なことはただの一度もすることなく、百万円以上勝っている(最近はあまり行けないのが悩みであるが・・・・)。
もちろん、自分自身のものの考え方もあるし、好き嫌いや相性の問題もあるので、その通りに行動して勝つことを期待しているのではない。
ただ、厳しい勝負の世界で不正をすることなく確実に勝っている人がいる、そして、そうした人たちは<勝負師として感性>を高いレベルで持っているという事実を受け止めてほしいだけである。
負ける人は、<勝つためにやらなければならないこと>をやっていないから負ける。
どのような勝負事であれ、準備を万全にし、よく観察し、よく思考して作戦を立て、思い切って決断することができて勝利することができる。
負ける人はそれを忘れているか、もしくは偶然の勝利を期待して努力することを放棄しているのである。
もちろん偶然で勝つこともあるだろう。しかし、偶然の勝利に浮かれているうちは勝負師としての感性や勘は磨かれないことは肝に銘じておこう。
斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)は、「75%当たっても、それが偶然であることをしっかりと受け止め、有頂天にならない人もいるのです。たとえそのことに成功しても、やり方は自分にはわかっていない、だから自分はコントロールしていないのだ、と冷静に状況を判断している人もいるのです。こういう人こそ賢人と言えるかもしれません。」と賢人たる資質について示唆を与えている。
真の賢人になるには遠い道のりだが、一歩踏み出したほうが得だと思う。
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