2007年06月23日
坊主頭(920)
今日は散髪の日でした。
といっても床屋に行くわけではなく、自分でバリカンのようなものを使って刈っていきます。
使い始めの日に使い方を間違えてくりんくりんの丸坊主になってからは(写真はその時のものです)、要領も良くなってすいすいと刈ることができるようになりました。
ほとんど丸坊主と変わりませんが、刈りおわると何ともいえないすがすがしい気持ちになります。
私は野球部のトレーニングも指導していますので、野球少年たちとはよく顔をあわせます。
愛工大名電高校野球部は、中にはスポーツ刈りもいるようですが基本的には坊主頭です。
刈り上がったばかりの頭をなぜながら、なぜスポーツでは坊主頭が多いのかふと疑問に思いました。
野球に限らず、他のスポーツでは坊主頭の選手を見ることはあります。
多分、それは「覚悟の印」だからです。
昔は剃髪や切り髪はまさに「覚悟」を示すものでした。
その名残ではないのかと思うのです。
大切なものを失うことで「このスポーツに賭けた!」という覚悟」を示すものだと思います。
では、テニスの選手にそういう選手がいないのはなぜなのでしょうか。
まだまだ「覚悟」が甘いということなのかもしれません。
つんつん頭にピンで髪を留めて、なんていう選手は私のところには練習に来てほしくはないですね。
みんなも私を見習って、「覚悟の坊主頭」で試合に臨む、なんてのもいいかもしれません。
でも、ちょっと気持ち悪いですかね(確かにちょっと・・・)。
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2007年06月23日
プライドを持つ(919)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -15-
私がそのような過酷な状況に耐えることができたもっとも大きな理由は、テニスをやっているという<プライド>である。
「俺は、テニスを、こんなに苦しくてもがんばっている。」
「お前たちとは違うんだ!」
「俺は青春をテニスというスポーツにかけている。」
・
・
・
という<思い>が自分を支えていた。
スポーツに打ち込んでいる人間は、何もしていない人間よりも価値があると強く信じていたのだ(今も少なからずそう思っている)。
強い絆で結ばれる仲間でも、「あいつが辞めないのに、俺が辞めてなるものか。」という意地のぶつかり合いがある。
これが人間を行動に駆り立てる。
そこには毎日繰り返される過酷な状況に対する絶望はない。
V・E・フランクル(「夜と霧」みすず書房)は、第二次大戦下のドイツ軍強制収容所における人間の心理を克明に記している。
その中には、「どのような過酷な状況でも人間としての尊厳を失わず、自分に与えられた仕事を誇りを持ってやり遂げようとする人がいた」と書かれている。
生き残った多くの人は、このような尊厳を持ち続けることができた人なのだ。
もちろん、そのような人でも惨殺された人は何万もいるだろうが、少なくとも、絶望に打ちひしがれ、生きる気力を失ってしまった人にはそのチャンスは少なかったと思われる。
また、その本の中で、「苦しむことはなにかをなしとげること」という言葉が大変印象に残っている。
なにかを本気になって成し遂げようとすれば、苦しみは避けては通れない。
その苦しみの中でもプライドを失わず、それにかける思いを持ち続けることで強くなれることを教えてくれているように思う。
<本当の苦しさ>を味わったとき、この言葉の<本当の意味>が見えてくるのかもしれない。
実は、私はテニスがそれほど好きではない。
練習もあまり好きではなかった。
テニスをしなければフラストレーションがたまるというようなことはない。
もちろん嫌いではないが、私にとってテニスは自己実現のための手段である。
つまり、テニスをやっている自分や、テニスを教えている自分が好きなのであり、それをより高みにもっていきたいからプライドを高く持って努力する。
そうなると、すべての人間がライバルである。
スポーツの枠を超えて、あらゆる成功者に負けたくない気持ちでいる。
成功者の活躍には賛辞を送りながら、それを超える自分になるにはどうしたら良いのかをいつも考えている。
絶望している暇など無いのだ。
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私がそのような過酷な状況に耐えることができたもっとも大きな理由は、テニスをやっているという<プライド>である。
「俺は、テニスを、こんなに苦しくてもがんばっている。」
「お前たちとは違うんだ!」
「俺は青春をテニスというスポーツにかけている。」
・
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という<思い>が自分を支えていた。
スポーツに打ち込んでいる人間は、何もしていない人間よりも価値があると強く信じていたのだ(今も少なからずそう思っている)。
強い絆で結ばれる仲間でも、「あいつが辞めないのに、俺が辞めてなるものか。」という意地のぶつかり合いがある。
これが人間を行動に駆り立てる。
そこには毎日繰り返される過酷な状況に対する絶望はない。
V・E・フランクル(「夜と霧」みすず書房)は、第二次大戦下のドイツ軍強制収容所における人間の心理を克明に記している。
その中には、「どのような過酷な状況でも人間としての尊厳を失わず、自分に与えられた仕事を誇りを持ってやり遂げようとする人がいた」と書かれている。
生き残った多くの人は、このような尊厳を持ち続けることができた人なのだ。
もちろん、そのような人でも惨殺された人は何万もいるだろうが、少なくとも、絶望に打ちひしがれ、生きる気力を失ってしまった人にはそのチャンスは少なかったと思われる。
また、その本の中で、「苦しむことはなにかをなしとげること」という言葉が大変印象に残っている。
なにかを本気になって成し遂げようとすれば、苦しみは避けては通れない。
その苦しみの中でもプライドを失わず、それにかける思いを持ち続けることで強くなれることを教えてくれているように思う。
<本当の苦しさ>を味わったとき、この言葉の<本当の意味>が見えてくるのかもしれない。
実は、私はテニスがそれほど好きではない。
練習もあまり好きではなかった。
テニスをしなければフラストレーションがたまるというようなことはない。
もちろん嫌いではないが、私にとってテニスは自己実現のための手段である。
つまり、テニスをやっている自分や、テニスを教えている自分が好きなのであり、それをより高みにもっていきたいからプライドを高く持って努力する。
そうなると、すべての人間がライバルである。
スポーツの枠を超えて、あらゆる成功者に負けたくない気持ちでいる。
成功者の活躍には賛辞を送りながら、それを超える自分になるにはどうしたら良いのかをいつも考えている。
絶望している暇など無いのだ。
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