2007年10月19日
開き直る(1028)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -61-
スポーツは残酷である。
努力しても報われないことのほうが圧倒的に多い。
努力しても、努力しても、成果が上がらずスポーツをやめていく選手も多い。
しかし、このへんは本当に不思議なのだが、成果が上がらないことに対して落ち込み、練習にも熱が入らず、傍から見ていて「もう選手としては難しいかもしれない」と思っていた選手が、突然に蘇り、飛躍的に成績を伸ばすことがある。
練習の中で何かきっかけをつかんで、それがターニングポイントになって強くなるというのとは少し違う。
そういう選手は、強くなることをあきらめていないから、苦しくてもがむしゃらに練習し、何かのきっかけをつかんで強くなるのに対して、強くなること、勝つことを半ばあきらめたかのような態度でいながら、突然に強くなることがあるのだ。
こういうようなことを「開き直る」という言葉で表現することがある。
いったい、「開き直る」というのはどういうようなことだろうか。
「不安」になると「焦り」、やたらと練習する選手がいる。
私が指導してきた選手の中にも、試合の前になると「練習していないと不安になるから」と言って、疲れていても、痛みがあっても練習し続ける選手がいた。
しかし、それだけ練習したからといって、「不安」なく試合に臨めるのかというと、決してそうではない。
かえって「これだけやったのに負けたらどうしよう」という「不安」が大きくなる場合のほうが多い。
その「不安」に打ち勝つことができなくて負けたときにはひどく落ち込み、さらに「焦り」の行動をとってしまうこともある。
これでは、ますます苦しくなるばかりで、試合でも自分の力を十分に出すことはできない。
そんなときに、「勝つときは勝つし、負けるときは負ける、勝ち負けにこだわらずに気楽にいこう」と開き直ることができればよいのだが、なかなかそうはいかないのがスポーツの世界である。
長田一臣(「日本人のメンタルトレーニング」スキージャーナル)は、
「考えるべきは徹底的に考えて、最後は捨てねばならぬ。スポーツマンにとってスポーツは「たかがスポーツ、されどスポーツ」である。スポーツマンにとってスポーツとはおよそ歯切れの悪い存在である。スポーツそのものはきわめて明快であるが、スポーツに携わるスポーツマンの性格は必ずしも明快とはいえない。一般にスポーツマンの性格を称して「竹を割ったような気性」というが、なかなかもってそれとは裏腹なものである。アッケラカンとした心のありようでは勝負に勝つことはむつかしい。怨みっぼく、殺されたら化けて出るくらいの執念がスポーツには要求されるのである。考えるべきときには考え抜いて、事に臨んではその考えをいっさい棄てるのでなければならぬ。考えることは重要だが、その考えを棄てることも重要だ。そうしないと迷いが生じ、こだわりとなって集中を妨げることになる。」
と述べている。
「考えを捨てる」とは「開き直る」と同じことだと考える。
だが、ここにあるようにスポーツマンの性格は、「怨みっぽく」かつ「執念深い」ので、なかなか「開き直れない」ということだ。
しかし、大舞台で最高の成績を挙げたアスリートは「開き直る」ことで力を存分に出すことができたのだ。
勢子浩爾(「こういう男になりたい」ちくま新書)は、
「レース前は恐怖を感じるが、泳ぐ直前にはやる気の塊に変身する。その過程で「マナ板のコイ」状態になり、「どうだぁ!」と開き直る瞬間がある。まるで自分が別の生き物になったように戦闘的な気持ちになり、怖いものは何もなくなる。」
という水泳の金メダリスト鈴木大地のコメントを紹介している。
「勝つ」ことについては徹底的に考えなくてはならないが、いざ勝負が始まってしまったら、「ただ自分の力を出すこと」のみに意識が向けられるようにならなければならないことを教えてくれる。
「開き直る」とは、まさにいろいろな考えにがんじがらめになっている自分を解放し、無心にテニスというものと向き合ったときに、すがすがしい開放感とともにテニスをすることを心の底から楽しむことができるような心境になることである。
そのような心境で臨むとき、自分でも信じられないくらいリラックスして、自分のもっている力を思う存分に発揮することができる。
残念ながら、「開き直る」にはどうしたら良いのかということはわからない。
ただ、「開き直る」ためには、徹底的に何かに打ち込んだという「経験」がなくてはならないことだけはわかっている。
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スポーツは残酷である。
努力しても報われないことのほうが圧倒的に多い。
努力しても、努力しても、成果が上がらずスポーツをやめていく選手も多い。
しかし、このへんは本当に不思議なのだが、成果が上がらないことに対して落ち込み、練習にも熱が入らず、傍から見ていて「もう選手としては難しいかもしれない」と思っていた選手が、突然に蘇り、飛躍的に成績を伸ばすことがある。
練習の中で何かきっかけをつかんで、それがターニングポイントになって強くなるというのとは少し違う。
そういう選手は、強くなることをあきらめていないから、苦しくてもがむしゃらに練習し、何かのきっかけをつかんで強くなるのに対して、強くなること、勝つことを半ばあきらめたかのような態度でいながら、突然に強くなることがあるのだ。
こういうようなことを「開き直る」という言葉で表現することがある。
いったい、「開き直る」というのはどういうようなことだろうか。
「不安」になると「焦り」、やたらと練習する選手がいる。
私が指導してきた選手の中にも、試合の前になると「練習していないと不安になるから」と言って、疲れていても、痛みがあっても練習し続ける選手がいた。
しかし、それだけ練習したからといって、「不安」なく試合に臨めるのかというと、決してそうではない。
かえって「これだけやったのに負けたらどうしよう」という「不安」が大きくなる場合のほうが多い。
その「不安」に打ち勝つことができなくて負けたときにはひどく落ち込み、さらに「焦り」の行動をとってしまうこともある。
これでは、ますます苦しくなるばかりで、試合でも自分の力を十分に出すことはできない。
そんなときに、「勝つときは勝つし、負けるときは負ける、勝ち負けにこだわらずに気楽にいこう」と開き直ることができればよいのだが、なかなかそうはいかないのがスポーツの世界である。
長田一臣(「日本人のメンタルトレーニング」スキージャーナル)は、
「考えるべきは徹底的に考えて、最後は捨てねばならぬ。スポーツマンにとってスポーツは「たかがスポーツ、されどスポーツ」である。スポーツマンにとってスポーツとはおよそ歯切れの悪い存在である。スポーツそのものはきわめて明快であるが、スポーツに携わるスポーツマンの性格は必ずしも明快とはいえない。一般にスポーツマンの性格を称して「竹を割ったような気性」というが、なかなかもってそれとは裏腹なものである。アッケラカンとした心のありようでは勝負に勝つことはむつかしい。怨みっぼく、殺されたら化けて出るくらいの執念がスポーツには要求されるのである。考えるべきときには考え抜いて、事に臨んではその考えをいっさい棄てるのでなければならぬ。考えることは重要だが、その考えを棄てることも重要だ。そうしないと迷いが生じ、こだわりとなって集中を妨げることになる。」
と述べている。
「考えを捨てる」とは「開き直る」と同じことだと考える。
だが、ここにあるようにスポーツマンの性格は、「怨みっぽく」かつ「執念深い」ので、なかなか「開き直れない」ということだ。
しかし、大舞台で最高の成績を挙げたアスリートは「開き直る」ことで力を存分に出すことができたのだ。
勢子浩爾(「こういう男になりたい」ちくま新書)は、
「レース前は恐怖を感じるが、泳ぐ直前にはやる気の塊に変身する。その過程で「マナ板のコイ」状態になり、「どうだぁ!」と開き直る瞬間がある。まるで自分が別の生き物になったように戦闘的な気持ちになり、怖いものは何もなくなる。」
という水泳の金メダリスト鈴木大地のコメントを紹介している。
「勝つ」ことについては徹底的に考えなくてはならないが、いざ勝負が始まってしまったら、「ただ自分の力を出すこと」のみに意識が向けられるようにならなければならないことを教えてくれる。
「開き直る」とは、まさにいろいろな考えにがんじがらめになっている自分を解放し、無心にテニスというものと向き合ったときに、すがすがしい開放感とともにテニスをすることを心の底から楽しむことができるような心境になることである。
そのような心境で臨むとき、自分でも信じられないくらいリラックスして、自分のもっている力を思う存分に発揮することができる。
残念ながら、「開き直る」にはどうしたら良いのかということはわからない。
ただ、「開き直る」ためには、徹底的に何かに打ち込んだという「経験」がなくてはならないことだけはわかっている。
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