2007年08月19日
正しい自己中のありかた(975)
強くなりたいあなたに贈る100ぐらいの法則 -39-
スポーツに真剣に取り組んでいる人は「さわやかで」、「思いやりがあって」、「我慢強い」というような一般的な概念がある。
しかし、実際にスポーツを指導していると、「ほんとかあぁぁぁぁ!」と突っ込みを入れたくなるようなことのほうが圧倒的に多い。
もちろん、青少年の正しい(と思われる)人格形成や道徳的な行動を身につけるためにスポーツが役に立つことを否定するものではないが、実際にはもっとどろどろとした、人間の本質的なエゴが噴出していることのほうが多い。
それを多くの指導者やマスコミは否定するのだが、実はそのどろどろとしたエゴの中に「強さの秘密」が隠されていることには気がつかない。
いや気がついてはいるけれど、美的に表現しようとしすぎているのだ。
だいたい、(巨人の星で)幼少のころより大リーグボール養成ギブスをつけていてさわやかなスポーツマンになるとは思えないし、超お金持ちの御曹司が身体がぼろぼろになるまで何キロもある鉄球を打ち続けるなんて無理くさい。
わが子の野球生命が絶たれるかもしれない戦いに敵として臨む親なんてのは、スポーツというものをどう考えていたのか聞いてみたいものだ。
そういった意味で巨人の星は、スポーツのどろどろとした部分を見事に描いた傑作なのだ。
このように、「怒り」とか「エゴ」とか、人間が本質的に持っている「戦う」ための感情や資質が低ければ、やはり戦いに勝つことは難しい。
しかし、その資質がいくら高くても、コントロールできなければスポーツの場面で生かすことはできないというのも真実である。
やみくもに怒っていたり、わがまま放題の奴は「自己中」といわれて敬遠されるだけだ。
単なるわがままと「正しい自己中」とはどういう違いがあるのかを理解していないと、その自己中心性がスポーツで強くなる資質だとしても、十分に生かされるようにはならないのだ。
ここでは、スポーツに生かすことのできる正しい自己中のあり方について学んでみよう。
まず、斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)のいうように、「人の自己中心性はなくならない」ということをはっきりと認識することからはじめよう。
自分の行動はいつも見ているからよく知っているが、他人の行動については断片的にしかみえないので、ちょっと自分の気に入らない行動を他人がとると、不平不満がアメーバのごとく増殖する。
このようなことは日常茶飯事に起こる。
あるとき、試合前に子どもたちに自主的な練習を行わせたところ、一部のご父兄の方から「コーチは試合前なのぜんぜん練習を見てくれない」、「もし自主練でよいというなら、スクールに通う必要はない」という指摘を受けた。
自主練を始める前に、子どもたちには「試合前は単純な練習を集中力を切らすことなくやり続けることがとても大切で、その中で自分の課題をつねに意識して取り組まなければならない。」と十分に説明したし、その時間以外のレッスンでは課題などを入念にチェックしてきたにも関わらず、このような指摘を受けたことに対しては、正直とまどった。
しかし、親というのは自分の子どもの利を第一に考えるものだし、そのときの断片的な状況を判断して不満に思ったということは、私の説明も不十分だったのだろうと反省もしている。
もちろん、私の指導に対する考え方が間違っていたとは思っていない。
自主的な練習が上達のためには必要であることは確かなことだし、基本的にこのやり方を変えるつもりもない。
自分が正しいと思うことに対しては、信念を持って行動をとることが大切だと考えるからだ。
ただ、ご父兄の方がそのような考え方をもつことを理解することで、より良いレッスンにつながるとは思っている。
わがままな考え方かもしれないが、このような「自立した自己中心性」が強くなるためには必要である。
勢子浩爾(「ぶざまな人生」洋泉社)は、「わたしの言い方で言えば、「個人」というのは、まず最低限の条件として、一人ひとりの存在が世界で唯一の価値と意味を持った存在(「自分」)である、ということを互いに尊重することによって成立する個人のことである。つまり他者をもっている。このことが第一義である。この条件をすっ飛ばしたところでは、自分の主張も、自己決定も、国や社会からの自立もへったくれもない。」といっている。
また、福田和也(「悪の恋愛術」講談社現代新書)は、「自分のものとは異なる視点をどれだけ許容できるか、包含できるかということが、人間の成熟、成長の尺度でもあるわけです。」という。
ちょっと難しい表現であるが、他人を一方的に非難するのではなく、他人の考えを尊重した上で、自分の信念を貫く姿勢が「正しい自己中」であるということだ。
単なる「わがまま」とは違う、スポーツ選手としての資質を伸ばすためのただしい自己中心性があなたに備わっているかを良く考えてほしい。
・相手のミスジャッジに対して、悪態をつき、わめき散らしていないか
・審判のジャッジに対して、審判を馬鹿にしたような態度をとっていないか
・自分のミスに対して怒りが収まらず、ふてくされて試合をしていないか
・リードされて、やる気をなくし、うなだれて試合をしていないか
私はこのような試合を何度も見てきた。
もし、このような試合をしているのなら、あなたに正しい「自己中心性」は備わっていない。
他人を尊重し、信念にもとづいて行動することが欠けているからである。
「怒り」に自分を見失うことなく、戦う姿勢を失わず、冷静に自分の信念にしたがって行動し続ける選手であってほしい。
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スポーツに真剣に取り組んでいる人は「さわやかで」、「思いやりがあって」、「我慢強い」というような一般的な概念がある。
しかし、実際にスポーツを指導していると、「ほんとかあぁぁぁぁ!」と突っ込みを入れたくなるようなことのほうが圧倒的に多い。
もちろん、青少年の正しい(と思われる)人格形成や道徳的な行動を身につけるためにスポーツが役に立つことを否定するものではないが、実際にはもっとどろどろとした、人間の本質的なエゴが噴出していることのほうが多い。
それを多くの指導者やマスコミは否定するのだが、実はそのどろどろとしたエゴの中に「強さの秘密」が隠されていることには気がつかない。
いや気がついてはいるけれど、美的に表現しようとしすぎているのだ。
だいたい、(巨人の星で)幼少のころより大リーグボール養成ギブスをつけていてさわやかなスポーツマンになるとは思えないし、超お金持ちの御曹司が身体がぼろぼろになるまで何キロもある鉄球を打ち続けるなんて無理くさい。
わが子の野球生命が絶たれるかもしれない戦いに敵として臨む親なんてのは、スポーツというものをどう考えていたのか聞いてみたいものだ。
そういった意味で巨人の星は、スポーツのどろどろとした部分を見事に描いた傑作なのだ。
このように、「怒り」とか「エゴ」とか、人間が本質的に持っている「戦う」ための感情や資質が低ければ、やはり戦いに勝つことは難しい。
しかし、その資質がいくら高くても、コントロールできなければスポーツの場面で生かすことはできないというのも真実である。
やみくもに怒っていたり、わがまま放題の奴は「自己中」といわれて敬遠されるだけだ。
単なるわがままと「正しい自己中」とはどういう違いがあるのかを理解していないと、その自己中心性がスポーツで強くなる資質だとしても、十分に生かされるようにはならないのだ。
ここでは、スポーツに生かすことのできる正しい自己中のあり方について学んでみよう。
まず、斎藤勇(「自己チュウにはわけがある」文藝春秋)のいうように、「人の自己中心性はなくならない」ということをはっきりと認識することからはじめよう。
自分の行動はいつも見ているからよく知っているが、他人の行動については断片的にしかみえないので、ちょっと自分の気に入らない行動を他人がとると、不平不満がアメーバのごとく増殖する。
このようなことは日常茶飯事に起こる。
あるとき、試合前に子どもたちに自主的な練習を行わせたところ、一部のご父兄の方から「コーチは試合前なのぜんぜん練習を見てくれない」、「もし自主練でよいというなら、スクールに通う必要はない」という指摘を受けた。
自主練を始める前に、子どもたちには「試合前は単純な練習を集中力を切らすことなくやり続けることがとても大切で、その中で自分の課題をつねに意識して取り組まなければならない。」と十分に説明したし、その時間以外のレッスンでは課題などを入念にチェックしてきたにも関わらず、このような指摘を受けたことに対しては、正直とまどった。
しかし、親というのは自分の子どもの利を第一に考えるものだし、そのときの断片的な状況を判断して不満に思ったということは、私の説明も不十分だったのだろうと反省もしている。
もちろん、私の指導に対する考え方が間違っていたとは思っていない。
自主的な練習が上達のためには必要であることは確かなことだし、基本的にこのやり方を変えるつもりもない。
自分が正しいと思うことに対しては、信念を持って行動をとることが大切だと考えるからだ。
ただ、ご父兄の方がそのような考え方をもつことを理解することで、より良いレッスンにつながるとは思っている。
わがままな考え方かもしれないが、このような「自立した自己中心性」が強くなるためには必要である。
勢子浩爾(「ぶざまな人生」洋泉社)は、「わたしの言い方で言えば、「個人」というのは、まず最低限の条件として、一人ひとりの存在が世界で唯一の価値と意味を持った存在(「自分」)である、ということを互いに尊重することによって成立する個人のことである。つまり他者をもっている。このことが第一義である。この条件をすっ飛ばしたところでは、自分の主張も、自己決定も、国や社会からの自立もへったくれもない。」といっている。
また、福田和也(「悪の恋愛術」講談社現代新書)は、「自分のものとは異なる視点をどれだけ許容できるか、包含できるかということが、人間の成熟、成長の尺度でもあるわけです。」という。
ちょっと難しい表現であるが、他人を一方的に非難するのではなく、他人の考えを尊重した上で、自分の信念を貫く姿勢が「正しい自己中」であるということだ。
単なる「わがまま」とは違う、スポーツ選手としての資質を伸ばすためのただしい自己中心性があなたに備わっているかを良く考えてほしい。
・相手のミスジャッジに対して、悪態をつき、わめき散らしていないか
・審判のジャッジに対して、審判を馬鹿にしたような態度をとっていないか
・自分のミスに対して怒りが収まらず、ふてくされて試合をしていないか
・リードされて、やる気をなくし、うなだれて試合をしていないか
私はこのような試合を何度も見てきた。
もし、このような試合をしているのなら、あなたに正しい「自己中心性」は備わっていない。
他人を尊重し、信念にもとづいて行動することが欠けているからである。
「怒り」に自分を見失うことなく、戦う姿勢を失わず、冷静に自分の信念にしたがって行動し続ける選手であってほしい。
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